日本歴史地名大系 「泉原村」の解説 泉原村いずはらむら 大阪府:茨木市泉原村[現在地名]茨木市泉原佐保(さほ)村の北、佐保川上流部にある山間の村。「出原村」とも書き(寛正五年九月日「勝尾寺領散在田畠目録写」勝尾寺文書)、古くは「いずわら」とよんだと思われる(年未詳一一月一五日「頼舜書状」同文書)。中世は京都御室仁和寺領忍頂寺五ヶ庄(にんちようじごかのしよう)に含まれ、寛喜二年(一二三〇)閏正月二七日付の勝尾寺四至注文(勝尾寺文書)に、勝尾(かつお)寺(現箕面市)領の四至は「東限泉原御室御領」とある。正応六年(一二九三)三月日付の僧覚重田地売券(同文書)によると覚重は「泉原村内字河尻田」の田一八歩を売却しており、この売買を泉原村村司が保証している(同年四月日「泉原村村司加判状」同文書)。 泉原村いずみはらむら 福島県:伊達郡霊山町泉原村[現在地名]霊山町泉原山野川(やまのがわ)村の北東に位置。西端を広瀬(ひろせ)川が北流し、東の白根(しらね)村(現梁川町)地内の十文字(じゆうもんじ)山を源とする滝之沢(たきのさわ)川(法霊川)が注ぐ。広瀬川に沿って川俣(かわまた)(現川俣町)と梁川(やながわ)(現梁川町)を結ぶ街道が通る。村名の由来として養老の滝伝説に類似した言伝えがある。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達東根(だてひがしね)のうちとして「泉のハら」とみえ、段銭は八貫七五〇文。「伊達天正日記」のうち天正一七年(一五八九)四月二一日の野臥日記に「山岸」「竹下分川つら」がみえ、当地の山岸(やまぎし)・川面(かわづら)にあたるとみられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by