法田村
ほうだむら
[現在地名]松阪市法田町
山添村の対岸、櫛田川右岸、祓川左岸にあり、当村南部で祓川が櫛田川より分流する。北は横地村、東は伊勢場村に続く。近世初期まで土田と称した。一一世紀段階には東寺領川合・大国庄の領域内にあった。治暦四年(一〇六八)三月一〇日祭主大中臣永輔下文案(東寺百合文書)に「東寺領大国土田作人」とあり、地子弁済の下知が行われた。承保三年(一〇七六)一一月二三日の東寺領伊勢国大国庄司解案(東寺百合文書)では「桓武天皇御勅入本領川合田六十六町之内十五町、号成願寺領坊坪々田等、称土田・川原御薗以去永承年中蜜以夜中打傍示、募神威掠領寺領田地」とあり、当地は川合庄の領域でもあり、川合庄をめぐる東寺と成願寺や伊勢神宮との争いのなかで、御園の成立が強行されていったことがうかがわれる。
法田村
ほうでんむら
[現在地名]最上町法田
東法田村の南西、南流する白川右岸に位置する。西法田とも称し、枝郷に野頭・羽根田など六ヵ村がある(新田本村鑑)。慶長九年(一六〇四)の小国某知行宛行状(佐藤文書)に「四百かり ほうてん内のかしら」とみえ、佐藤左馬允に与えられている。元和八年(一六二二)の御前帳写ではほうてん村とあり、高一千一五一石余、寛文四年(一六六四)には高一千六七五石余、うち新田三九石余(新田本村鑑)、江戸時代中期頃に東法田村を分村したと思われる。明和三年(一七六六)には高一千三五一石余、うち田方一千二一二石余、反別一二六町七反余、うち田方一〇四町八反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)の新庄領総高控では竈数一〇三(うち借屋二)、人数四〇七、駄馬二一五。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 