波見村(読み)はんむら

日本歴史地名大系 「波見村」の解説

波見村
はんむら

[現在地名]高山町波見はみ

野崎のさき村の東、東流する肝属川が海に入る河口部南岸にある。対岸串良くしら川東かわひがし村の柏原かしわばる(現東串良町)北東は海(志布志湾)に面し、南東内之浦うちのうら北方きたかた(現内之浦町)西方を同川支流荒瀬あらせ川が北流する。古くは野崎のうちに含まれていたとされる。

伴姓肝付氏系譜(喜入肝付家文書)によれば、肝付兼員(阿仏)の子兼広(野崎の祖)、その子に兼賢(左近次郎)兼任(左衛門尉、波見と号する)がみえる。兼任の幼名はもろいぬ(諸犬丸)で、永仁六年(一二九八)三月二〇日、叔父肝付兼石から肝付きもつき郡東方内の和与田浜田五反を譲られている(「伴兼石譲状」喜入肝付家文書)。正平一二年(一三五七)四月二八日には比志島太郎(範平)に島津氏久から「羽見村地頭職」などが兵粮料所として宛行われた(「島津氏久宛行状案」川田文書)。至徳三年(一三八六)一二月五日には島津玄久(氏久)から波見筑後介(野崎兼任の孫か)に波見村が由緒知行の地として安堵され、野崎村内津曲つまがり名以下田地が給分として与えられた(「島津玄久安堵状」旧記雑録)。この時期波見氏・野崎氏ら肝付氏一族が本宗家に対して一定の独立性をもって行動していたこと、波見氏が肝属川河口から流域沿い上流部に勢力を伸ばしていたことなどがうかがえる。応永九年(一四〇二)一一月二二日の本宗家の肝付兼元は波見初一(波見兼親の子)に対し、「為一家之上、殊以成親子之思」として子々孫々まで扶持することを約し、また波見本領の知行を安堵した(「肝付兼元書下」喜入肝付家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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