高山町
たかやままち
飛騨地方のほぼ中央部を占める高山盆地に宮川を挟んで南北に長く発達した町。地形は東の山手高台と宮川沿いの低平地帯に二分される。天正一四年(一五八六)金森長近が入封、江名子川以南、宮川右岸の通称城山(多賀山・天神山)に築いた高山城を中心に建設された。三代高山藩主金森重頼の時代(元和元年―慶安三年)になって宮川左岸に向屋敷、江名子川北岸に左京屋敷が建てられて町域はしだいに拡大した。元禄五年(一六九二)幕府領となったのちは陣屋を置き、城と侍屋敷は破却され町人の町にかわり、飛騨国の商工業の中心地として繁栄した。
高山城が築かれた多賀山には、飛騨守護代多賀氏の一族高山外記が永正年間(一五〇四―二一)構築した天神山城があったと伝える(飛州志)。多賀山あるいは天神山の名称は、近江京極氏の出身である外記が築城に際し、近江の多賀天神を城中に勧請したことに由来するといい、一説には多賀山が高山になったといわれる。「安河記」によれば、天文(一五三二―五五)頃宮川の流れを東の丘に切通して洪水を防ぎ、町筋を広くして村民の往来が容易となったので安河と名付けられたと述べ、安河街道で餅を商う家も二、三軒あったと伝える。また一説には鍛冶を業とするものが多く、鍛冶屋町の称があると伝える。なお鍛冶屋町は東山の白山神社蔵の石灯籠(弘化四年銘)に「鍛冶屋町氏子」とみえる。
〔金森氏の城下町時代〕
金森氏の城下町経営は築城とともに始まるが、長近・可重二代によって宮川以東江名子川から南の一帯につくられた基礎確立期と、三代重頼以後の、宮川西岸および江名子川北岸に拡大した発展期とに分けることができる。町域は城の北麓に開けており、侍屋敷地・町人屋敷地・寺屋敷地に三分される。侍屋敷は城外東麓から江名子川左岸、南は大隆寺下まで。また城外西麓から中橋までの宮川右岸に至り、さらに城外北麓三の丸付近から台地一帯、江名子川北岸におよぶ城の西・北・東の三方を取巻く三地域に点在し、扶持人屋敷をも含んでいたと考えられる。町人町は宮川右岸の低地帯で、長近は築城と同時に松倉旧城下の石ヶ谷にあった一七軒をはじめ、鍋山城下や七日町などから七〇〇余軒とも伝える町家を移したといわれる。宮川の流れに沿って南北に東から西へ一番町・二番町・三番町をつくり、この三町を本町ともいった。これを東西に横切って安川町と肴町とがあり、町並は整然としていたが、城下町特有の見通しのきかない屈曲は町の南部に設けられていた(岐阜県史)。
高山町
こうやまちよう
面積:一二八・七五平方キロ
肝属郡北東部に位置する。北東の一部は志布志湾に面し、南から東にかけては内之浦町、西は吾平町・大根占町、西から北にかけて鹿屋市、北は串良町・東串良町。内之浦町境の肝属山地は国見山・黒尊岳・甫与志岳など標高八〇〇―九〇〇メートルの山が連なり、同山地を水源とする高山川が支流を合せながらほぼ北流し、肝属川に合流する。高山川と本城川との合流点付近より北は肝属平野となり、北西部を境川が北西流して吾平町境で肝属川に入る。北西端の同川北岸の富山地区は南東流する同川支流中山川右岸域にある。同地区北部を国道二二〇号が東西に横断、北東海岸沿いを国道四四八号が走り、県道高山―吾平線、主要地方道鹿屋―高山―串良線などが分岐する。
遺跡は肝属川流域の沖積平野および右岸の台地縁辺部に多くみられる。縄文時代早期の遺跡には後田の岩屋遺跡、新富の鐘付遺跡などがある。後期の遺跡は後田の瀬戸宇治遺跡・山下の上遺跡・片野遺跡・道中原遺跡・折生野遺跡などが知られ、野崎の和田城跡からもこの時期の遺物が出土している。晩期の遺跡には波見の床滑遺跡・乙子神社境内遺跡などがある。弥生時代では新富の花牟礼遺跡、野崎の上原遺跡で住居跡とみられる遺構が検出されている。野崎の塚崎遺跡では在地の山ノ口式土器と瀬戸内・畿内系の土器が出土している。古墳時代では国指定史跡の野崎の塚崎古墳群のほか新富の丸岡古墳群、富山の辺塚古墳群、新富の西横間古墳群などがある。
高山町
たかやまちよう
[現在地名]奈良市紀寺町
田中町の南に所在。「奈良曝」に「紀寺組」とみえ、「奈良坊目拙解」によれば川之上突抜町の枝郷で、往年は元興寺東金堂の跡。東金堂の炎上後、宝徳三年(一四五一)中金堂等の火災があり、その焦土瓦礫をこの辺りに捨てたので、地形がうずたかくなり、俗に高山と名付けたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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