日本歴史地名大系 「波豆村」の解説 波豆村はずむら 兵庫県:宝塚市波豆村[現在地名]宝塚市波豆境野(さかいの)村の西にあり、西は有馬(ありま)郡香下(かした)村・山田(やまだ)村(現三田市)。羽束(はつか)川と波豆川の合流地点に位置し、三田から妙見(みようけん)山へ向かう道に沿う。中世は多田(ただ)庄内の一村。応安四年(一三七一)八月日の赤松則祐禁制(香下寺文書)に「波豆庄」とみえ、香下(こうげ)寺(現三田市)の寺辺の東側に接していた。同年四月八日の多田院(現川西市)の金堂供養棟別銭注文(多田神社文書)によると波豆村一四二家(一家当り一〇文余)、永和元年(一三七五)には一四四家(一家当り一〇文弱)に棟別銭が課せられていた(七月二五日「諸堂造営料棟別銭郷村注文」同文書)。文明一八年(一四八六)の多田庄段銭結解状(同文書)に新田方分として二町大四〇歩、諸本所分として当村地頭分一町、本所分九町一〇歩、納銭二貫文とあり、多田庄新田方分のほか、多田庄以外の地頭分・本所分があった。長享元年(一四八七)二月二四日、山井大夫将監景俊の知行する八幡社領多田庄内波豆の段銭譴責が禁止されているが(「室町幕府奉行人連署奉書」同文書)、この八幡社領が前述の本所分であろう。永正三年(一五〇六)三月二七日の多田庄段銭結解状(同文書)によれば新田方分納分一貫二三六文、諸本所分のうち地頭分納分七七二文、本所分納分四貫二〇〇文で、本所分の納分が大幅に増加している。永正一二年閏二月二四日、多田庄内波豆村の田地一反が多田院塔婆本尊灯明料として永代寄進された(「沙弥妙珍田地寄進状」同文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by