日本歴史地名大系 「泥原新保浦」の解説
泥原新保浦
どろはらしんぼうら
中世は、奈良興福寺領
慶長期(一五九六―一六一五)になると「阿古江新保」(慶長七年の「阿古江新保記録」三国町郷土資料館蔵)、泥原新保(慶長一一年頃の越前国絵図)などと称するようになった。前掲阿古江新保記録によれば総石高四六一・六石、総田畑面積一九町七反、家数六一四、人数二千七三七(男一千四二七・女一千三一〇)で、商船一二〇艘(北国船千石以上)、同商船七二艘(はかせ船千石以下)、浜漁船一一艘(ただし綱戸屋一一軒、一人一艘持)、小漁船四九艘(ただし四九軒、一軒一艘)をもち、漁役銀一一〇匁八分、海役銀一二三匁を納めていた(上記の商船数などについては疑義もあり)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報