日本歴史地名大系 「津代湊」の解説
津代湊
つしろみなと
笠利の大島における歴史的役割からして港津の機能は琉球時代にさかのぼると考えられる。近世には黒糖の積出港であり、また大島代官らが着岸した。琉球入ノ記(旧記雑録)によれば、慶長一四年(一六〇九)三月の島津氏の進攻に際して、大将樺山久高の一団と七島の船頭らの乗船五艘が難風によってようやく「津代湊」に入っている。正保琉球国絵図に湊の記載はないが、「つしろ崎」と記される。享保八年(一七二三)に大島代官として赴任した町田氏、同一四年赴任の伊集院氏は津代に着岸し、以後も元文二年(一七三七)・寛延二年(一七四九)・宝暦五年(一七五五)・明和九年(一七七二)・天明五年(一七八五)などと利用されており(大島代官記)、大島の主要な湊であったことが知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報