日本歴史地名大系 「浄珠院」の解説 浄珠院じようじゆいん 愛知県:岡崎市上和田村浄珠院[現在地名]岡崎市上和田町 北屋敷矢作川堤防の下、木立に囲まれて建つ。もと天台宗で清光山大海(だいかい)寺と号した。その後荒廃して聖徳太子の像を安置した小堂のみ残っていたが、応永年間(一三九四―一四二八)松平家二代泰親の長子である教然によって再興、浄土宗となり浄珠院と号す。教然は将軍足利氏に働きかけて砂金・斎田を賜るという(三河聡視録)。また安祥(あんしよう)城(現安城市)の松平長親が羽根(はね)村で一〇〇貫の地を寄進、松平八代広忠の時に六名(むつな)村天神崎(てんじんさき)の地六〇石余を賜うとある(六ッ美村誌)。永禄六、七年(一五六三、四)の三河一向一揆の時はこの寺が家康方の本陣となり、上和田(かみわだ)に住む大久保一党が一揆と対決し、家康も出陣して激戦となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by