浅口郡(読み)あさくちぐん

日本歴史地名大系 「浅口郡」の解説

浅口郡
あさくちぐん

面積:八八・八七平方キロ
船穂ふなお町・金光こんこう町・鴨方かもがた町・里庄さとしよう町・寄島よりしま

県南西部に位置する。かつては現在の倉敷市の一部、笠岡市の一部をも郡域とし、高梁たかはし川河口の沖積平野と同川西岸の瀬戸内海沿岸地帯を占めた。現在の郡域は二分され、五町で形成されている。東方に離れて位置する船穂町は高梁川下流西岸に沿い、北は吉備郡真備まび町、他はすべて倉敷市に接する。ほか四町は隣接し、北は小田おだ矢掛やかげ町、東は倉敷市、西は笠岡市に接し、南は瀬戸内海の水島みずしま灘に面する。北部に遥照ようしよう山・阿部あべ山があり、中央部は平野。里見さとみ川が東流するが、天井川で水量も少なく、流域は旱魃に悩まされ、俗に「備中ひでり」とよばれる。その対策として溜池が多い。南部には竜王りゆうおう山があり、その南面が瀬戸内海の水島灘。郡中央部をJR山陽新幹線・山陽本線が通る。また、国道二号が通り、近年山陽自動車道の建設がすすんでいる。郡名の由来について「浅口郡誌」は「海ヲ開発シテ、遠浅ノ水ノ干潟アル地」であったことによるとする。以下の記述は旧浅口郡域を対象とする。

〔原始・古代〕

縄文期の貝塚に注目すべきものが多い。現笠岡市西大島にしおおしまの約一七〇個体の縄文人の墓地として著明な津雲つくも貝塚や備中原びつちゆうばら貝塚、船穂町の里木さとぎ貝塚や涼松すずみまつ貝塚などはその代表的なもので、当郡域が縄文時代人にとって生活の適地であったことを示している。だがその後の時代の歴史的展開を知るための手掛りはきわめて少ない。特記すべき古墳はなく、式内社として国家の奉幣を受ける神社は一社もない。このことは郡域内に有力豪族が存在しなかったことを示している。

和名抄」は阿智あち間人はしうと船穂ふなお占見うらみ川村かわむら小坂こさか拝師はやし大島おおしまの八郷をあげ、令制の区分では中郡にあたる。郡域内の人々の生活を知るうえで興味深い内容をもっているのは「続日本紀」霊亀二年(七一六)八月二〇日条の「備中国浅口郡犬養部雁手、昔配飛鳥寺焼塩戸、誤入賤例、至是遂許免之」とある記事である。この記事によると、雁手は製塩に携わっていたが、大和飛鳥あすか寺の需要にこたえるために塩を作っていたことから、同寺の奴として扱われ、七世紀末に全国の人民の良賤を定めた戸籍(「庚午年籍」または「庚寅年籍」)作成のときに賤民としての身分に固定された。雁手はこれを不満として政府に訴えを起こし、この時にようやく良民としての身分を公的に認められるにいたったわけである。この史料は八世紀における賤民身分とその解放のあり方を具体的に示すとともに、当時の当郡域の人々の生業とその地位の一端を伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報