浜の目(読み)はまのめ

日本歴史地名大系 「浜の目」の解説

浜の目
はまのめ

弓浜半島の米子以北の地域と村々の総称。浜目とも書き、美保みほ湾に面する地域をそと浜、中海に面する地域をうち(内潟)とよんだ。時代によりその範囲は変遷しており、寛保二年(一七四二)の「伯耆民諺記」は「阿島・曲松・大篠津・小篠津・才野・新屋・竹ノ内・中野上道境目・外ノ江・渡利」の一二村(阿島は粟島、曲松はのちの福定、才野は佐斐神、境目は境、渡利は渡)を「浜ノ目と云ふ」と注している。その後、江戸中期以降弓浜半島では和田わだ富益とみます夜見よみ(現米子市)などの村々の開発が相次いだ。その結果、安政(一八五四―六〇)頃の「伯耆志」では「外浜は夜見村、内浜大崎以北の十八ケ村を浜の目と呼ぶ」と称されるようになった。「在方諸事控」にも浜目一八ヵ村という言い方が多出するが、「浜之目弐拾壱ケ村」(天保七年「申渡状」深田家文書)という場合もあり、浜目村々として二五ヵ村の庄屋・年寄が署判している例もあるので(「在方諸事控」安永四年条)、必ずしも一定はしていなかったようである。浜の目は「浜の部」で、部は群の意とする説もある(伯耆志)

「雲陽軍実記」によると、永禄六年(一五六三)一一月毛利元就の兵が尼子義久の兵糧船を弓浜半島で待伏せした「浜の目」合戦があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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