日本大百科全書(ニッポニカ) 「浦上教徒事件」の意味・わかりやすい解説
浦上教徒事件
うらかみきょうとじけん
幕末・明治初期における浦上キリシタンへの弾圧事件。江戸幕府のキリシタン禁制体制下にあって、肥前浦上(長崎市)のキリシタンは、お帳方(ちょうかた)、お水方(みずかた)らの指導のもとに、「隠れキリシタン」としてその信仰を守った。すでに1790年(寛政2)に浦上一番崩れ、1842年(天保13)に浦上二番崩れ、56年(安政3)には浦上三番崩れと、キリシタンの発覚、検挙事件があったが、開国後に浦上四番崩れである本事件が起こった。65年(慶応1)フランス人宣教師プチジャンらにより大浦(おおうら)天主堂が建立され、天主堂内で宣教師と浦上キリシタンとの出会いが行われて信仰表明がなされ、いわゆる「キリシタンの復活」となった。67年浦上キリシタンは檀那寺(だんなでら)である聖徳寺僧によらない自葬を敢行し、村民らの寺請(てらうけ)拒否へと発展し、6月14日(陽暦7月15日)長崎奉行所(ぶぎょうしょ)は浦上キリシタンの検挙、投獄に踏み切った。
この事件は、外国公使らの抗議によって外交問題化したが、解決をみないまま幕府は瓦解(がかい)し、明治政府に引き継がれた。明治政府は幕府のキリシタン禁制政策を踏襲し、1869年(明治2)いったん村預けになっていた浦上キリシタンの総配流を断行した。しかし諸外国の抗議や、キリシタン弾圧が条約改正の障害になることから、73年、キリシタン禁制高札を撤去し、西日本諸藩に配流したキリシタンを帰村させた。キリシタンが配流地で体験した拷問、説諭、夫役(ぶやく)などはいわゆる「旅の話」として伝えられている。
[村井早苗]
『片岡弥吉著『浦上四番崩れ』(1963・筑摩書房)』