( 1 )幕政の時代、②の吊責(つるしぜめ)の拷問はめったに行なわれなかったらしい。それは、拷問にまで及ぶことが吟味の役人の面目、また幕府の威光にかかわると考えられたものと思われる。
( 2 )拷問によっても自白が得られぬ場合は放免されるが、察度詰(さっとづめ)と称して、状況証拠によって有罪の判決を下したこともある。
相手の肉体,あるいは精神に受容可能な範囲をこえる暴力,強制力を行使することにより,相手を屈服させ,その意志に反する行為を導き出すこと。したがって相手の肉体を拘束し,身心の自由を奪ったうえで相手を特定の行動に誘いこむために,暴力を系統的に行使することとなる。このような手段は古来,多くの権力や,非権力的主体によって行われてきた。現代民主主義国家においては統治手段としてのテロルの行使は禁じられており,日本国憲法も公務員による拷問を禁じ,またその結果得られた自白には証拠能力がないと定めている。しかし政治暴力の一形態としての拷問は,統治手段としてテロルの行使が一般化している国々,とりわけ全体主義国家や権威主義体制のもとにおいては今日でも広くみられる。軍隊や政治警察等,現代国家が有している複雑かつ精緻な強制力装置の体系は,多くの点で拷問をはじめとする政治的暴力行使への誘因をなしているといえる。とくに世界的規模での暴力装置の無限運動が,テロリズムや対抗暴力の生まれる可能性を高め,この意味において拷問が利用される局面は政治的に不安定な第三世界諸国をはじめ多くの国で増加しているといえよう。
執筆者:下斗米 伸夫
古代ギリシアでは,拷問の適用は奴隷と外国人だけに限られていた。ローマでは,拷問は帝政期初頭に職権的訴追制とともに出現するが,その適用は上層身分には禁止されて,下層身分および奴隷にのみ許されている。しかし大逆罪等の場合には身分の別を問わない。2世紀末以後には,不確実なまたは矛盾する証言をなす証人に科せられる拷問もあった。古ゲルマン法は拷問を知らないため,中世の西ヨーロッパではスペインを除きそれは忘れられた。教会法は初め拷問をまったく採用しなかったが,糾問手続の確立する13世紀以後,異端を大逆に擬して,教会裁判所では異端者に限り拷問を用いるにいたった。しかしその適用は,諸種の制限に服する合理的で控えめなものであったが,後にしだいに激しくなっていった。各国の世俗法は,遅早の差はあれ中世後期には,ローマ・カノン法およびイタリア法学の影響をうけ,糾問手続とともに拷問を採用する方向に転じる。この場合にも初めは従来の通常の訴訟手続に対する例外的な訴訟手続とみられて,拷問の適用には諸種の制約があった。法定証拠主義の確立とともに自白は証拠の王とされ,治安の維持に焦る裁判官により拷問はついには全重罪事件に通常の一手続とされて,被疑者の有罪化のみならず共犯者の探知にも利用される。このような逸脱と濫用は,近世には各国主権者による矯正と規制の対象となるが,かならずしも実効性がともなわなかった。新教徒や啓蒙主義者らの非難と主張とによって拷問が法的制度として廃絶されるのは,一般には18世紀中である。拷問方法には諸種あるが,たとえば水,火,拷問木馬,母指締め器,身体巻上げ落下機,とげを用いて脚を傷つける〈スペイン長靴〉,身体引きのばし台などが用いられた。
執筆者:塙 浩
日本では中国法を継受した律令によって拷問の制度が整えられた。訊杖(じんじよう)という拷問具を用い,背と尻とを打つ。その回数制限や対象者の年齢制限など,当時にあって規定は抑制的なものである。中世から近世初期には過酷な拷問が行われたと伝えられるが,江戸時代後期の幕府法は,方法を笞打(むちうち)(縛敲(しばりたたき)),石抱(いしだき)(算盤責(そろばんぜめ)),海老責(えびぜめ)および釣責(つるしぜめ)の4種とした。このうち釣責のみを拷問と特称して重い犯罪に限り適用し,他の3者は牢問(ろうもん)/(ろうどい)と呼んで区別する。拷問はもとより牢問も実際にはさほど多用せず,これらを用いずに自白に追い込むことが役人の手腕とされた。
執筆者:加藤 英明 明治期に入っても拷問の制度は残り,1870年(明治3)の新律綱領には杖(じよう)による拷問が規定され,また73年の改定律例は,断罪には自白が必要であると定めていた。しかし76年の太政官布告はそれを改め,罪を断ずるのは証拠によることを定め,さらに79年の太政官布告によって拷問は制度上は廃止された。そして,刑法は警察官等が拷問を行う場合を職権濫用罪の一類型として,処罰の対象とした(刑法195条)。しかし,実際には拷問はなおあとを絶たなかった。第2次大戦後,新憲法は公務員による拷問を絶対に禁止し(36条),また強制,拷問もしくは脅迫による自白を証拠とすることはできない,とした(38条2項)。近世において支配的であった職権的な糾問手続のもとで,拷問が用いられ,刑事司法が荒廃したという歴史の貴重な教訓が,ここに生かされているのである。しかし今日でも拷問がまったく姿を消したとはいえず,さらには形を変えて,いわば精神的拷問も用いられている,という指摘がなされている。長期の拘禁などからくる精神的不安を利用し,あるいは肉親が悲しみ,苦しむ姿を過大に印象づけて涙を誘い,その精神的動揺につけいるような方法などがその例としてあげられている。
上述のとおり,日本国憲法は拷問などによって得られた自白に証拠能力を認めていない。その根拠として,かつては,そのような自白は虚偽であることが多いからであると考えられていたが,それでは,個々の自白の真実性が確認されれば,その自白を排除する実質的な理由は消えることとなる。もしその自白を証拠として認めるのなら,拷問を禁止するという理念は有名無実となってしまうであろう。そこに,人道的な刑事司法をみることはできない。得られた自白がたとえ真実であっても,拷問という手段そのものが許されないのである。被疑者・被告人の人権を保障し,刑事訴追はすべて適正な手続にそって進められるべきものであるという要請が,ここで強く意識されなくてはならない。
→刑具 →刑罰
執筆者:米山 耕二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
自白を得るために被告人・被疑者に対して肉体的苦痛を与えること。糾問主義手続では、自白は「証拠の女王」とされ、自白を強要するためにさまざまな拷問が用いられた。日本でも、江戸時代には拷問(牢問(ろうもん))が認められ、明治初期に及んだが1879年(明治12)にまったく廃止された。しかしその後も、自白は実際上有力な証拠と考えられ、被告人や被疑者に対する拷問は少なくなかった。日本国憲法においては、公務員による拷問を禁じ(36条)、その保障規定として黙秘権、拷問や脅迫による自白の証拠能力の否定(38条)を明文化し、さらに刑事訴訟法で、任意性に疑いある自白はこれを証拠とすることができない(319条)と規定している。
[石井良助]
中国では古来、原則として罪人はその自白をまって処罰すべきものとされたから、自白を強要するために、拷問が認められていた。その制度のよく整い、かつ日本律令(りつりょう)の母法となった唐の律令(りつれい)では、拷問のことを拷訊(ごうじん)または拷掠(ごうりゃく)といい、犯罪の疑いがあるのに自白しない場合、および囚人の自白によらなければ犯罪事実を明らかにできない場合にだけ、拷問を許している。拷問の方法は杖(つえ)で打つことであるが、その回数は前後を通じて三度を超えることをえず、杖数(じょうすう)は前後を通じて200を超えることをえないなどの制限があり、もし官司が拷問によって不法に囚人を死に至らしめた場合は徒(ず)2年の刑に処せられたが、唐律令を継受した日本律令にも同様の規定があった。中国では唐以後歴代、拷問の制を認めている。
日本律令では拷訊に用いる訊杖(じんじょう)は、長さ3尺5寸、元が直径4分、先が直径3分で、臀(しり)と背とを半分ずつ打つ定めであった。拷問は中世でも行われ、鎌倉幕府法でもこれを認めている。中世から戦国時代にかけて、火責め、水責め、木馬責めなどの拷問が行われたとの記録があるが、これらの記録のなかには、信憑(しんぴょう)性が問題になるものが少なくない。拷問に関する制度が整ったのは、江戸時代、ことに1742年(寛保2)公事方御定書(くじかたおさだめがき)の制定以後である。もっとも、江戸幕府法上拷問とよばれたのは釣責(つるしぜ)めであるが、当時牢問(ろうもん)(ろうどい、とも)とよばれたものも実質的には拷問であった。牢問は牢屋敷内の穿鑿(せんさく)所で痛めつけることであって、具体的には笞(むち)打ち、石抱(いしだ)き、海老(えび)責めの三つを牢問という。笞打ちは、囚人を後ろ手に縛って肩を打つのである。石抱きは、笞打ちで白状しないときに、後ろ手に縛ったまま、正座をさせ、裸の膝に石(縦3尺、横1尺、厚さ3寸)をのせることで、その数は2~3枚から、だんだん増やして、7~8枚から10枚になったこともある。笞打ちまたは石抱きを繰り返しても白状しない者には、海老責めを行う。海老責めは、あぐらをかかせ、縄で首と両足首を締め寄せて、身体を海老のように曲げるのである。笞打ちや石抱きはしばしば行われたが、海老責めはめったに行われなかった。牢問をしても白状しないときに、拷問(釣責め)を行う。釣責めは、両手を後ろ手に縛って、身体を宙に(足下が地上から3寸ぐらい)つり上げることで、牢屋敷内の拷問蔵で行われた。拷問は当時、容易ならざることとされ、その行われるのは、殺人、火付け、盗賊、関所破り、謀書謀判および詮議(せんぎ)中で罪が決しないが、他罪が発覚して、その罪状が分明であって、その罪だけで死刑が行われるべきものに限り、かつ悪事をした証拠が確かなのに、本人が白状しないことを要した。実際には、拷問(釣責め)はあまり行われていない。それは、拷問しなければ白状させられないのは、吟味役人が無能であることを示すものであるし、また拷問をしても白状しないときは、幕府の威光にかかわるとされたからであると考えられる。
明治時代になってからも、1870年(明治3)制定の新律綱領は訊杖による拷問を定め、73年制定の断獄則例は拷問具として算板(そろばん)を追加した。翌年制定の改定律例は「凡(およ)ソ罪ヲ断ズルハ口供結案ニ依(よ)ル」と定めた。当時、拷問制度に対する反対論が強く、政府は76年に、前記の改定律例の規定を「凡ソ罪ヲ断ズルハ証ニ依ル」と改めた。しかし、拷問そのものを禁止しなかったので、拷問は依然そのあとを絶たなかったが、79年に拷問に関する規定はすべて削除され、制度上、拷問は消滅した。
[石井良助]
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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