条約改正(読み)じょうやくかいせい

精選版 日本国語大辞典 「条約改正」の意味・読み・例文・類語

じょうやく‐かいせい デウヤク‥【条約改正】

[1] 〘名〙 条約を改め正すこと。〔英和外交商業字彙(1900)〕
[2] 幕末の安政年間(一八五四‐六〇)に江戸幕府が諸外国と結んだ修好通商条約などの不平等条約の改正。治外法権の撤廃、関税自主権の回復などを主眼とする。明治維新後、井上馨、大隈重信など歴代の外相が失敗。明治二七年(一八九四)外相陸奥宗光イギリスとの交渉で治外法権撤廃に成功、のち、他の国々とも同様の改正を行なった。関税自主権の回復は明治四四年(一九一一)に外相小村寿太郎により実現した。

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デジタル大辞泉 「条約改正」の意味・読み・例文・類語

じょうやく‐かいせい〔デウヤク‐〕【条約改正】

明治期における、江戸幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正事業。明治27年(1894)治外法権撤廃に成功(第一次条約改正)、同44年関税自主権を回復(第二次条約改正)した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「条約改正」の意味・わかりやすい解説

条約改正
じょうやくかいせい

幕末、列国との間に締結された不平等条約を改正するため、明治時代に行われた政治交渉。アメリカをはじめ、西洋列強の圧力に幕府が屈して締結されるに至った、いわゆる安政(あんせい)五か国条約(1858)は、(1)片務的領事裁判規定があり、外国人犯罪に日本の法律、裁判は適用されず、(2)関税自主権も日本側のみに与えられず、税権の独立を欠く典型的な不平等条約であった。改税約書が結ばれてからは、関税率が5%の低率に固定されたままとなり、安い外国商品が大量に日本市場に流入し、国際収支を不均衡にしたばかりか、日本の産業発達を著しく阻害した。このように日本の独立と国益とを損なう不平等条約の改正は、民族主義を国家政策の基本理念に掲げて成立した明治政府にとって、最大の悲願ともいうべきものであった。

 1871年(明治4)政府は岩倉使節を欧米各国に派遣して列国の意向を打診したが失敗に終わり、76年から外務卿(きょう)寺島宗則(むねのり)の下で、まず関税自主権の回復を目ざす外交交渉が、列国代表との間に個別に始められた。殖産興業政策を強力に展開し、産業保護、歳入増大を図る観点から、とくに税権の回復が切実に要望されたからである。ところがイギリス公使パークスの強い反対でこの交渉は挫折(ざせつ)し、日本側提案を認めたアメリカとの改定約書も、他の列強の同意が発効の要件となっていたので、死文に等しいものとなった。79年かわって外務卿に就任した井上馨(かおる)は、方針を転換して税権、法権をともに漸進的に回復しようと試みたが、その背景には領事裁判に隠れた外国人犯罪事件が国内人心を刺激したこともあって、とりわけ法権回復に専念することになった。井上案に対しても依然強硬なイギリス側の提案で、82年より東京で条約改正予議会が開かれた。この会議ではとくに法権回復に難色が示され、西洋人関係の裁判を日本の司法権下に置くにあたり、(1)とくに西洋人法官採用の特例を認め、西洋人法官が多数を占める日本人法官との混成裁判で運用する、(2)西洋法制の原理に基づく日本の成文法規を速やかに制定する、(3)内地の居住権、営業権をすべて外国人に開放する、などを条件とすることでようやくまとまった。86年からの改正本会議もこの案で妥結し、加えて関税率も5%から11%に引き上げることに列国側は同意した。この間、井上外相は交渉を有利に展開するため、日本が急速に西洋化したとの外観をつくりだそうとした。ここに鹿鳴館(ろくめいかん)時代とよばれる欧米の風俗を模倣する風潮が、上流社会に一時流行することとなった。しかるに政府顧問ボアソナードは、この改正案の内容が日本の法権独立を毀損(きそん)するものであるとして反対意見を唱えた。政府内にはほかにも有力な反対意見があったうえ、内容を漏れ知った自由民権派が国辱であると非難して対外硬論を掲げ、反政府運動が高まりをみせた。87年井上外相は辞職し、条約改正交渉は延期となったが、政情は沈静せず、ために政府は保安条例を発布して秩序の回復を図った。

 井上の後任に推された自由民権派立憲改進党系の外相大隈重信(おおくましげのぶ)は、列強と個別交渉を行う方法に切り替え、井上時代の改正案を基調としながら、一方では現行条約を遵守することによって、居留地外に進出するための外国人側の脱法行為を厳しく取り締まり、現行条約の不便さを外国人に痛感させ、そのことによってより有利な条件をかちとろうと試みた。まずメキシコとの間に相互平等条約(1888)が、ついで1889年アメリカとの間に、(1)西洋人関係の裁判に西洋人法官が多数を占める混成裁判所を大審院のみに限り、(2)成文法体系は整備するが、西洋法原理にはとらわれない、との条件で日本の法権回復を認め、引き換えに日本内地を開放する単独条約が締結された。しかるにイギリスはあくまでこの内容に反対し、しかもその内容がタイムズ紙上を通じて日本国内に伝わるに及んで、自由民権派自由党系や国家主義者らは、憲法違反内地雑居の危険を叫んで政府攻撃を展開した。大隈は刺客の爆弾によって負傷し、改正交渉はまたも挫折し、単独条約も取消しとなった。

 このように条約改正は、列国の圧力と国内自由民権派の反対で板挟みのなかに難航を重ねた。しかるに、シベリア鉄道の起工を計画するロシアの極東進出政策に、イギリスは警戒を深め、そのため日英間の友好関係を重視するようになったので、この難境も打開されていくこととなった。

 第一次山県有朋(やまがたありとも)内閣の外相青木周蔵(前外務次官)が、大隈案の失敗にかんがみ、西洋人法官を採用せず、成文法体系の整備も公約しないで領事裁判権を撤廃しようとする案を提示したのに対し、イギリスは意外にも妥協を示し始めた。大津事件で辞任した青木の後任、榎本武揚(えのもとたけあき)も青木の路線を受けて列国と交渉、まずポルトガルとの間で領事裁判権撤廃に成功した。ついで第二次伊藤内閣の外相陸奥宗光(むつむねみつ)は、イギリス、ドイツ、アメリカ3国に対する各国別の交渉を開始、青木駐独公使(元外相)の尽力により、成文法規制定後の法治化を理由に、1894年7月まずイギリスとの間に治外法権の撤廃、税率引上げの交渉に成功した。このときの条件は、内地開放(雑居)であったが、対外硬派はこの点をとらえて政府反対の気勢をあげ、そのため内閣は相次いで衆議院を解散する強硬手段をとって、事態を乗り切らなくてはならなかった。日清(にっしん)戦争の勝利という国際的地位の向上にも助けられて、97年末までに残る列国との間に同じ内容の改正調印が行われた(1899年7月から発効)。しかし、これらの改正条約で旧居留地の永代借地権は回収されないままだったため、のちに問題を残すこととなった。他方、関税自主権の回復はこれより遅れ、日露戦争後第二次桂(かつら)太郎内閣のとき1911年(明治44)7月、前述の第一次改正条約の締結期限の終了をまって、外相小村寿太郎(じゅたろう)の下で実現され、ここに日本は名実ともに独立国家となり、列強と対等な国際関係に入ることとなった。

[田中時彦]

『山本茂著『条約改正史』(1943・高山書院)』『稲生典太郎著『条約改正論の歴史的展開』(1976・小峰書店)』『大山梓・稲生典太郎編『条約改正調書集成』上下(1991・原書房)』『山本茂著『条約改正史』(1997・大空社)』『小宮一夫著『条約改正と国内政治』(2001・吉川弘文館)』『藤原明久著『日本条約改正史の研究 井上・大隈の改正交渉と欧米列国』(2004・雄松堂出版)』『井上清著『条約改正』(岩波新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「条約改正」の意味・わかりやすい解説

条約改正 (じょうやくかいせい)

幕末から明治初年にかけて日本が欧米諸国と締結した不平等な対外条約を改正するにいたるまでの外交交渉。当時,欧米諸国は日本や清国,トルコなどの非キリスト教国に対して司法制度の相違を理由に,領事裁判権を設定した。これは外国人の自治を認める居留地の制度と結合して,その国の主権を侵害した。そのうえ非キリスト教国の側のみが関税協定と最恵国待遇を強要されたので,条約は片務的で不平等な義務を非キリスト教国に課していた。しかも条約は有効期間または廃棄の方法を規定し,期限がくると自動的に失効するか,一方が申出をして廃棄できるのが普通だが,日本の結んだ通商条約は日本が鎖国に逆もどりすることを警戒し,1年前の予告を条件に1872年(明治5)7月以降に改正交渉ができるだけだった。明治維新後,政府は主権国家の名実を得るために不平等条項の改正交渉を行ったが,既得権の放棄を欲しない列国は,交渉に応ぜず,法権回復は日清戦争後の1899年,関税自主権回復は日露戦争後の1911年であった。

条約改正の予告期に当たる1871年(明治4),〈万国対峙〉を目的のひとつとして廃藩置県が行われた。その後,政府は条約改正の予備交渉とその前提となる近代的法治国家への改編準備のため岩倉使節団を米欧回覧に派遣した。岩倉具視らは途中アメリカで交渉に入ったが,領事裁判権撤廃,関税自主権承認などの日本側の希望は受け入れられず,かえって外国人への内地開放,日本の輸出税廃止,地方行政規則や貿易港則の制定についての事前協議を要求されたため,以後,交渉をやめた。岩倉らはこの経験から,条約改正による完全独立には内政改革の先行が条件であると確信して帰国し,征韓派と対立して明治6年の政変(1873)を惹起した。内政改革には工業化が要請されたが,それには国内産業の保護と政府歳入の増加が必要であった。76年政府は日朝修好条規で朝鮮に不平等条約を強制しながら,一方で欧米諸国に対して外務卿寺島宗則は,関税自主権の獲得に重点をおく改正交渉をはじめた。この交渉は日米間でいちおう成功し,78年駐米公使吉田清成と国務長官エバーツW.M.Evartsとの間で約書に調印された。この実施には列国が同様の条約を締結することが必要とされたが,イギリスその他は同意しなかった。またこのころ,イギリス商人のアヘン密輸入を領事裁判所が無罪とするハルトレー事件や,ドイツ船が日本の検疫規則を無視して出港するヘスペリア号事件が起き,国内世論は法権回復が先決であるとして政府方針に批判的になり,交渉は中止された(1879年9月)。

自由民権運動は国民的後援のもとで列国に条約改正を迫るべきだとして,条約改正のためにも国民に参政権を与えよと主張した。井上馨外務卿は改正の重点を法権回復におき,司法省や外務省に外国人顧問を招いて法典の整備をいそぐ一方,欧化政策を進めた。改正交渉は極秘に進められたため,欧化政策の一環としての鹿鳴館の夜会など内外人の社交は,国民の目に民衆の窮迫を忘れた政府高官の享楽と外国への媚態(びたい)と映じて,その憤激を高めた。内閣制度の成立で外相に就任した井上は,1886年5月,東京で正式の列国合同の条約改正会議を開いた。それは1879年以来列国の在京公使と日本代表との共同会議で作成された改正原案を,さらに各国政府と日本がそれぞれ検討して修正した日本案で協議された。しかし,イギリス,ドイツ公使は日本案に反対し,領事裁判権撤廃の条件として,(1)新条約批准2年後の領事裁判権撤廃,(2)内地全面開放,(3)外国人の関係する刑事事件の予審には外国人判事をあてること,死刑宣告を受けた外国人について各国はその引渡しを請求して自国の法律で処刑できること,という裁判管轄条約案,(4)日本は重要法典を公布前に外国に通知し,承認を求める,などの要求をした。日本はこの条件を承認して本案を議了にし,各国の同意を待つことにした。しかし,この交渉中にノルマントン号事件が発生し,日本国民の対英感情は極度に悪化し,政府の欧化政策に対する国権論者の批判も台頭してきた。また極秘裡に進められていた改正案を法律顧問ボアソナードが知り,新条約案は従来の不平等条約より国権を毀損するものだ,という意見書を秘密出版で流布させた。ついで農商務相谷干城は井上の進める条約改正交渉に反対して辞職した(1887年7月)ため,反対運動は全国的に燃え上がった。井上は条約改正会議を無期延期して辞職した(87年9月)が,世論は鎮まらず,地租軽減,言論・集会の自由,外交失策挽回を求める三大事件建白運動が広がった。

1888年2月,政府は反政府運動の分裂を図って大隈重信を外相に起用した。国会開設を控え対等条約要求の声が高まるなかで大隈は,条約励行主義をとり,条約に規定がないのに外国人が享有するようになった権利をすべて否認し,外国人を不便に耐えられないようにして,彼らから改正を要求させようとした。また大隈は井上のとった国際会議方式が外国の結束を招いたとみて,国別交渉方式をとり,内地開放,協定税率,有条件主義による最恵国条項などを規定した改正案を準備した。法権については大審院にのみ外国人判事を任用し,外国人が被告である事件については大審院を終審または一審終結の裁判所とし,その判事の多数に外国人をあてるとした。また外国に重要法典の編纂を約束し,2年以内に編纂が終わらなければ,その公布3年後まで領事裁判権撤廃を延期することとした。89年この案で極秘のままアメリカ,ドイツ,ロシアと条約を締結したが,新条約案の内容が《ロンドン・タイムズ》に洩れると,法典編纂の予約は議会の立法権を制約するものであり,外国人判事任用は違憲という批判が国内で生じた。改正交渉の是非が新聞・雑誌上で激論され,政府内にも反対論が広がるなかで,玄洋社員来島恒喜の大隈襲撃事件が起こり,交渉は延期された。

議会開設後最初の第1次山県有朋内閣の外相青木周蔵は対等条約案を列国に示した。これまで改正交渉に消極的だったイギリスはロシアの極東進出を牽制するため,日本の好意を得ようと,交渉を受け入れる姿勢を示したが,大津事件(1891)で青木は引責辞任した。第2次伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は議会の反対を防ぐため自由党と提携したが,改進党や国民協会は千島艦事件(1892)の責任追及のなかで対外強硬論をもりあげ,改正交渉を牽制した。陸奥は第5議会を解散して対外硬派を抑え,イギリスに外人排斥運動の取締りを保証した。駐英公使青木周蔵も日本の目的はロシアの南下防止にあるとして,1894年7月日英通商航海条約の調印に成功した。つづいて日本は列国とも条約を締結し,99年から逐次実施された。それは居留地を撤廃し,通商上の特権や最恵国待遇も双務的なものであり,関税も引き上げられるという内容であったが,関税自主権は回復されなかった。これは,小村寿太郎外相によって条約の満期をまって,1911年に解決された。なお,旧居留地の永代借地権は1942年まで回収することができなかった。
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百科事典マイペディア 「条約改正」の意味・わかりやすい解説

条約改正【じょうやくかいせい】

幕末に結ばれた不平等条約の改正事業。1858年の安政五ヵ国条約とその後の諸条約は,治外法権・関税自主権喪失など日本に不利な条約であった。明治政府はまず1871年岩倉使節団を欧米に派遣した。1878年米国と調印の税権回復を内容とする外務卿寺島宗則案が出されたが,他国との締結に失敗して廃棄となった。その後外務卿井上馨は,税率を引き上げることと内地開放・外人法官任用などを条件に治外法権を撤廃することを提案したが,政府部内の反対と三大事件建白運動による反対を受けて1887年7月中止となる。次の大隈重信外相は,治外法権撤廃を中心に,内地開放・外人法官任用(大審院のみ)・法典整備などの内容の改正案で各国別に交渉を始めたが,大隈が爆弾を投げられて負傷し1889年10月中止。次いで青木周蔵外相,次の榎本武揚外相は,法権・税権とも回復し,代償は内地開放のみという案で交渉したが不成功。次の陸奥宗光外相は法権回復のみの案で英国と交渉,ついに1894年7月治外法権撤廃・内地開放・税率一部引上げなどを内容とする日英通商航海条約に調印し,次いで他国とも同様の条約を結び,1899年7月一斉に発効となった。税権回復はこの条約の期限切れの1911年小村寿太郎外相による新条約で実現した。
→関連項目伊藤博文内閣永代借地権欧化主義カピチュレーション関税自主権居留地黒田清隆玄洋社下田条約谷干城珍田捨巳東洋自由党鳥尾小弥太内地雑居問題日清修好条規日本(新聞)ノルマントン号事件林董三浦梧楼領事裁判鹿鳴館

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「条約改正」の解説

条約改正
じょうやくかいせい

幕末以来の不平等条約を対等なものに改めるための明治政府の対外交渉。1871年(明治4)条約改正掛を任命。岩倉遣外使節の目的も西洋諸国の条約改正の意向打診にあった。寺島宗則外務卿の税権回復の交渉はアメリカに他国が同調しなかった。井上馨(かおる)外務卿(外相)は法権・税権の一部回復をめざし条約改正会議を開催。日本の法権に服する外国人への内地開放を宣言,内地雑居論議をよぶ。鹿鳴館(ろくめいかん)時代とよばれる欧化政策や外国人判・検事任用,外国による法典の承認などに反対が高まって退陣。大隈重信外相は国別交渉,条約励行主義をとり,メキシコと対等条約,米・独・露の3カ国と新条約に調印したが遭難し失脚。青木周蔵外相は外国人法官廃止など大隈の方針を修正して交渉にのぞんだが,大津事件で辞職。榎本武揚外相は調査委員会を設けたが交渉には至らなかった。陸奥宗光外相は対等条約案で,日英通商航海条約の調印に成功し,99年に実施され領事裁判制度・外国人居留地を廃止。小村寿太郎外相は1911年税権の完全回復を達成した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「条約改正」の解説

条約改正
じょうやくかいせい

明治時代の不平等条約を対等に改めた交渉
幕末に結んだ修好通商条約(安政の五カ国条約)は関税自主権がなく領事裁判権を認める不平等条約であったので,明治政府は条約改正を企図し,1871年岩倉遣外使節を派遣したがアメリカに拒否された。その後,民間では民族的自覚を説いたが,政府は外国への懇願と妥協で目的を達しようとし,'78年寺島宗則外務卿はアメリカとの間で関税自主権を回復する新条約に調印したが,イギリスなどの反対で失敗。後任の井上馨外務卿は欧化政策をとったが,外国人裁判官任用問題で各方面からの反対をうけ失敗した。つづいて大隈重信外相案も大審院に外国人裁判官任用の点で猛反対をうけ失敗。その後,青木周蔵外相は大隈案を修正し交渉に臨んだが,大津事件で頓挫し,後任の榎本武揚外相の交渉も本格化するには至らなかった。陸奥宗光外相のとき,対ロシア関係の悪化から日本に接近したイギリスの承認により,'94年領事裁判権の撤廃に成功。1911年小村寿太郎外相のとき,関税自主権を回復した。

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世界大百科事典(旧版)内の条約改正の言及

【井上馨】より

…75年,元老院議官となり,また翌年,特命副全権弁理大使として日朝修好条規(江華条約)を結び,同年渡欧,78年帰国した。以後,参議兼工部卿,法制局長官,外務卿などになり,条約改正に尽力。85年の第1次伊藤博文内閣では外相として欧化政策をとり,批判をうけて辞職。…

【岩倉使節団】より

…1871‐73年(明治4‐6),特命全権大使岩倉具視を中心とした米欧回覧の使節団。その目的は,(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈,(2)上記条約改正への予備交渉,(3)米欧各国の近代的制度・文物の調査・研究であったが,(2)の問題では成功せず,もっぱら(1)と(3)を主として遂行した。使節団の首脳は,右大臣岩倉(公卿,47歳――出発当時の数え年,以下同)のほか副使に参議木戸孝允(山口,39歳),大蔵卿大久保利通(鹿児島,42歳),工部大輔伊藤博文(山口,31歳),外務少輔山口尚芳(なおよし)(佐賀,33歳)がなり,各省派遣の専門官である理事官や書記官など総勢50名に近い大使節団であった。…

【カピチュレーション】より

…1923年にトルコ共和国はローザンヌ条約によってオスマン帝国のカピチュレーションを廃止し,イランもまた,28年にイギリスに対するこの特権を廃棄し,エジプトでは37年に解消した。 また,領事裁判権,治外法権などの条項は,19世紀中葉以降,東アジアへの侵略を始めた欧米諸国が,中国,日本などと条約を締結する際に要求するところとなり,その結果,日本と中国において〈不平等条約〉の改正・撤廃は,中東の諸国と同様に,焦眉の政治課題となった(条約改正)。明治前期の日本で,ヨーロッパ列強の支配下にあるエジプトなど中東諸国の法制について大きな関心が払われたのはこのためである。…

【関税自主権】より

… こうした不平等関税を改正し関税自主権を回復しようとする動きはかなり早くからみられたが,これがようやく実現されたのは1899年のことであった。同年の条約改正,新通商条約の発効によって関税自主権の一部が回復されたのである。関税定率法制定(1897)と条約改正の結果,輸入品532品目中427品目が関税定率法にもとづく国定税率を課すこととなり,税率も国定税率平均15%,協定標準税率10%に引き上げられ,さらに輸出税も全廃された。…

【法制史】より

戸籍),近代的土地制度を確立するための地券制度(1872)と地租改正条例(1873公布),近代的教育制度を確立するための学制(1872公布)・教育令(1879,1880公布),商工業を発展させるための国立銀行条例(1872公布)・日本銀行条例・為替手形約束手形条例(ともに1882公布)などであった。(2)第2期は,国際的・国内的に法体制を確立することを目標とした法典編纂条約改正の時期であり,1885年末の太政官制の廃止,内閣制度の発足から99年の改正条約の発効,法典の全面施行に至る。この時期の特徴は,自由民権運動の鎮圧後,国内的には一応天皇を中心とする統治機構が確立したものの,なお不平等条約の改正と法典編纂の完成とによる法体系完成への模索が行われた点にある。…

※「条約改正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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