浦賀湊(読み)うらがみなと

日本歴史地名大系 「浦賀湊」の解説

浦賀湊
うらがみなと

東西浦賀村の間に深く入込んだ天然の良港。中世前期には久里浜くりはま入江が深く切込んでいたと思われ、近世西浦賀にしうらが分郷の小名に元浦賀もとうらがの地名が残るので、中世の浦賀は久里浜の入江をさしていたと考えられる。文明一八年(一四八六)聖護しようご(現京都市左京区)の義演道興は「金沢、榎戸、浦河とて三の湊なりけるとかや」と記した(廻国雑記)天文(一五三二―五五)末年には浦賀城を拠点とする小田原北条氏の水軍が結集し、半島の浦々の船と村落の支配を行ったと思われる。浦河の表記は近世前期まで使用されている(「泰応公年譜」慶安二年八月九日条)。近世初頭より湊として栄えたと思われるが、三崎みさき番所(現三浦市)走水はしりみず番所が廃止された元禄九年(一六九六)以降本格的な繁栄が続く。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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