海田市(読み)かいたいち

日本歴史地名大系 「海田市」の解説

海田市
かいたいち

[現在地名]海田町海田市・大正たいしよう町・南大正みなみたいしよう町・堀川ほりかわ町・南堀川みなみほりかわ町・さかえ町・寿ことぶき町・つくも町・みなみつくも町・明神みようじん町・南明神みなみみようじん

瀬野せの川下流に位置し、川の右岸を走る山陽道に沿って街村が形成されていた。海田村ともいう(安芸国知行帳)瀬野川以南は近世の新開により陸地化したものである。東は奥海田おくかいた、南は矢野やの(現広島市安芸区)の各村に接していた。

平安末期に成立した開田かいた庄は当地も含んでいたと思われるが、その中心はむしろ奥海田村付近であった。応安四年(一三七一)海田浦に二〇日間ほど滞在した今川了俊が「北の山ぎはに所々家あり」と記している(道ゆきぶり)のは、海田市から船越ふなこし(現広島市安芸区)辺りのことであろう。了俊は甲越こうごえ峠を越える山陽道を通らずに「しほひの浜」より西下しているので、この海岸ルートのほうが主要路になりつつあったことがうかがえる。当地はそうした交通の発達に伴い市町として発展していったと思われ、弘治元年(一五五五)には本来の中心部が奥海田と記されることから(同年二月二五日付毛利元就書状「閥閲録遺漏」所収山本清左衛門家文書)、新興地である当地がすでに海田の中心的存在となったことがわかる。

近世初頭の海田村は村高四八石余の小村であったが(安芸国知行帳)、うち四〇石余を屋敷地が占める典型的な町の形態であり(寛永一四年「海田地詰のとり帳」広島大学蔵)、のち「海田市」として町方とされ、庄屋・組頭のほかに町年寄・町肝煎などが置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の海田市の言及

【海田[町]】より

…広島県西部,安芸郡の町。1956年海田市,東海田2町が合体,海田町となる。人口3万0047(1995)。…

※「海田市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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