コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

藤原泰衡 ふじわらのやすひら

8件 の用語解説(藤原泰衡の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原泰衡
ふじわらのやすひら

[生]久寿2(1155)
[没]文治5(1189).9.3. 平泉
平安時代末期~鎌倉時代の奥羽の豪族。陸奥押領使。秀衡の次男。母は基成の娘。文治3 (1187) 年父の死により陸奥,出羽両国の支配者の地位を受継いだ。当時は源頼朝に離反したその弟源義経が秀衡のもとに庇護されていた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐やすひら〔ふぢはら‐〕【藤原泰衡】

[1155~1189]平安末期の陸奥(むつ)の豪族。秀衡の子。父の遺言で源義経をかくまったが、頼朝方の圧迫に耐えかね、衣川の館(たて)に攻めて殺した。のち、頼朝に攻められて逃走中、部下に殺され、奥州藤原氏は滅亡。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

藤原泰衡【ふじわらのやすひら】

平安末期の陸奥(むつ)の豪族。奥州藤原氏最後の人。父秀衡の遺言を守り源義経をかくまったが,源頼朝の圧迫に抗しきれず義経を殺した。1189年頼朝に攻められ(奥州征伐),逃走中部下に殺された。
→関連項目平泉無量光院跡

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原泰衡 ふじわらの-やすひら

1155-1189 平安後期-鎌倉時代の豪族。
久寿2年生まれ。藤原秀衡(ひでひら)の次男。母は藤原基成の娘。奥州藤原氏の4代。陸奥(むつ)・出羽(でわ)押領使(おうりょうし)。文治(ぶんじ)5年源頼朝の圧力により,平泉で源義経を殺害。同年幕府の征討軍をむかえて敗れ,9月3日蝦夷(えぞ)地にのがれる途中で家臣の河田次郎に殺された。35歳。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

藤原泰衡

没年:文治5.9(1189)
生年:久寿2(1155)
平安末期の武将。藤原秀衡の次男。母は民部少輔藤原基成の娘。25歳死亡とする史料もある。小次郎という。文治3(1187)年父の死後,その跡を継ぎ,陸奥・出羽押領使。同5年閏4月30日,源頼朝の意を受けて,父が保護した源義経を攻め殺したが,許されず,頼朝の追討をうけて敗北し,夷狄島(北海道)へ逃れようとして,途中,肥内郡贄柵(大館市)で郎従の河田次郎に殺された。その首は頼朝のもとに届けられたが,返されて,中尊寺金色堂におさめられた。耳,鼻が削がれ,額に釘を打った跡があり,梟首されたことが分かる。この首は長く忠衡のものと伝えられていたが,梟首の跡などから泰衡のものと判明した。

(大石直正)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのやすひら【藤原泰衡】

1155‐89(久寿2‐文治5)
藤原秀衡の次男。母は藤原基成の娘。陸奥・出羽押領使。1187年(文治3)父の没後,奥州藤原氏代目となる。源頼朝の強請によって平泉にいた源義経を殺すが,許されず,89年7月頼朝の攻撃を受け,北海道に渡ろうとして敗走,途中肥内郡贄柵(にえのさく)で郎従の河田次郎に殺された。その首は頼朝のもとに届けられたが返され,中尊寺金色堂の父秀衡の金棺のかたわらに葬られた。奥州征伐【大石 直正】

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ふじわらのやすひら【藤原泰衡】

1155~1189) 鎌倉初期の陸奥むつの豪族。秀衡の子。陸奥・出羽押領使。鎌倉幕府の圧力に抗しきれず1189年かくまっていた源義経を衣川で殺害したが、同年源頼朝の討伐をうけ、敗走の途中殺され、奥州藤原氏は滅亡した。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原泰衡
ふじわらのやすひら
(1155―1189)

鎌倉初期東北の武将。奥州藤原氏第4代。秀衡(ひでひら)二男。源頼朝(よりとも)の征服にあい、平泉(ひらいずみ)百年の社稷(しゃしょく)を失った。父秀衡の晩年から平泉と鎌倉間は義経(よしつね)の取扱いをめぐり冷戦状態に入っていた。秀衡の死後、泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を殺し、弟忠衡(ただひら)をも討ったが、頼朝はこれを許さず、1189年(文治5)大軍をもって攻めた。泰衡は蝦夷島(えぞがしま)に逃れようとして、9月3日肥内(ひない)郡贄柵(にえのさく)(秋田県大館(おおだて)市)で郎従河田次郎により殺され、奥州藤原氏は滅びた。[高橋富雄]
『高橋富雄著『奥州藤原四代』(1958・吉川弘文館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の藤原泰衡の言及

【奥州征伐】より

…1189年(文治5)源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を攻撃し,これを滅亡させた戦い。奥州藤原氏と源頼朝は早くから対立的であったが,藤原秀衡が源義経をかくまうに及んで,それは決定的なものとなった。…

【平泉文化】より

…平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…

※「藤原泰衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

藤原泰衡の関連キーワード佐藤継信奥州藤原氏藤原実定平維将平資盛藤原国衡藤原季兼(1)藤原忠衡藤原基範源義国

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone

藤原泰衡の関連情報