出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鎌倉初期東北の武将。奥州藤原氏第4代。秀衡(ひでひら)二男。源頼朝(よりとも)の征服にあい、平泉(ひらいずみ)百年の社稷(しゃしょく)を失った。父秀衡の晩年から平泉と鎌倉間は義経(よしつね)の取扱いをめぐり冷戦状態に入っていた。秀衡の死後、泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を殺し、弟忠衡(ただひら)をも討ったが、頼朝はこれを許さず、1189年(文治5)大軍をもって攻めた。泰衡は蝦夷島(えぞがしま)に逃れようとして、9月3日肥内(ひない)郡贄柵(にえのさく)(秋田県大館(おおだて)市)で郎従河田次郎により殺され、奥州藤原氏は滅びた。
[高橋富雄]
『高橋富雄著『奥州藤原四代』(1958・吉川弘文館)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(大石直正)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1155~89.9.3
奥州藤原氏4代当主。秀衡の次男,母は藤原基成の女。1187年(文治3)父の跡を継ぎ,陸奥・出羽両国の押領使(おうりょうし)となる。兄国衡・源義経とともに「三人一味」せよという父の遺言に反し,源頼朝の命に従い義経を討つ。その後,頼朝の大軍に攻められ,平泉を捨てて敗走。途中,肥内(ひない)郡贄柵(にえのさく)で家臣の河田次郎に殺された。首は源家の故実により眉間に八寸釘を打って柱にかけられ,のち中尊寺金色堂に納められた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1189年(文治5)源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を攻撃し,これを滅亡させた戦い。奥州藤原氏と源頼朝は早くから対立的であったが,藤原秀衡が源義経をかくまうに及んで,それは決定的なものとなった。…
…平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…
※「藤原泰衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新