デジタル大辞泉
「藤原泰衡」の意味・読み・例文・類語
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ふじわら‐の‐やすひら【藤原泰衡】
- 鎌倉初期の陸奥の豪族。秀衡の第二子。父の後を継いで、陸奥出羽六郡をおさめ、義経を衣川館に庇護したが、頼朝の圧迫を受け、文治五年(一一八九)義経を殺害した。これによって頼朝の歓心を得ようとしたが、逆に攻められ、逃走中に郎従河田次郎のため殺された。久寿二~文治五年(一一五五‐八九)
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藤原泰衡 (ふじわらのやすひら)
生没年:1155-89(久寿2-文治5)
藤原秀衡の次男。母は藤原基成の娘。陸奥・出羽押領使。1187年(文治3)父の没後,奥州藤原氏4代目となる。源頼朝の強請によって平泉にいた源義経を殺すが,許されず,89年7月頼朝の攻撃を受け,北海道に渡ろうとして敗走,途中肥内郡贄柵(にえのさく)で郎従の河田次郎に殺された。その首は頼朝のもとに届けられたが返され,中尊寺金色堂の父秀衡の金棺のかたわらに葬られた。
→奥州征伐
執筆者:大石 直正
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藤原泰衡
ふじわらのやすひら
(1155―1189)
鎌倉初期東北の武将。奥州藤原氏第4代。秀衡(ひでひら)二男。源頼朝(よりとも)の征服にあい、平泉(ひらいずみ)百年の社稷(しゃしょく)を失った。父秀衡の晩年から平泉と鎌倉間は義経(よしつね)の取扱いをめぐり冷戦状態に入っていた。秀衡の死後、泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を殺し、弟忠衡(ただひら)をも討ったが、頼朝はこれを許さず、1189年(文治5)大軍をもって攻めた。泰衡は蝦夷島(えぞがしま)に逃れようとして、9月3日肥内(ひない)郡贄柵(にえのさく)(秋田県大館(おおだて)市)で郎従河田次郎により殺され、奥州藤原氏は滅びた。
[高橋富雄]
『高橋富雄著『奥州藤原四代』(1958・吉川弘文館)』
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藤原泰衡
ふじわらのやすひら
[生]久寿2(1155)
[没]文治5(1189).9.3. 平泉
平安時代末期~鎌倉時代の奥羽の豪族。陸奥押領使。秀衡の次男。母は基成の娘。文治3 (1187) 年父の死により陸奥,出羽両国の支配者の地位を受継いだ。当時は源頼朝に離反したその弟源義経が秀衡のもとに庇護されていた。頼朝は泰衡に対して義経の逮捕送進を要求,泰衡は文治5 (89) 年閏4月義経を衣川館に襲って殺し,その首を鎌倉の頼朝に送った。同年8月頼朝軍の来攻を受けて各地で敗れ,同月 21日に本拠の平泉館を焼いて逃走したが,部下に殺され,ここに奥州藤原氏は滅亡した。 (→平泉文化 )
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藤原泰衡
没年:文治5.9(1189)
生年:久寿2(1155)
平安末期の武将。藤原秀衡の次男。母は民部少輔藤原基成の娘。25歳死亡とする史料もある。小次郎という。文治3(1187)年父の死後,その跡を継ぎ,陸奥・出羽押領使。同5年閏4月30日,源頼朝の意を受けて,父が保護した源義経を攻め殺したが,許されず,頼朝の追討をうけて敗北し,夷狄島(北海道)へ逃れようとして,途中,肥内郡贄柵(大館市)で郎従の河田次郎に殺された。その首は頼朝のもとに届けられたが,返されて,中尊寺金色堂におさめられた。耳,鼻が削がれ,額に釘を打った跡があり,梟首されたことが分かる。この首は長く忠衡のものと伝えられていたが,梟首の跡などから泰衡のものと判明した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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藤原泰衡
ふじわらのやすひら
1155~89.9.3
奥州藤原氏4代当主。秀衡の次男,母は藤原基成の女。1187年(文治3)父の跡を継ぎ,陸奥・出羽両国の押領使(おうりょうし)となる。兄国衡・源義経とともに「三人一味」せよという父の遺言に反し,源頼朝の命に従い義経を討つ。その後,頼朝の大軍に攻められ,平泉を捨てて敗走。途中,肥内(ひない)郡贄柵(にえのさく)で家臣の河田次郎に殺された。首は源家の故実により眉間に八寸釘を打って柱にかけられ,のち中尊寺金色堂に納められた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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藤原泰衡 ふじわらの-やすひら
1155-1189 平安後期-鎌倉時代の豪族。
久寿2年生まれ。藤原秀衡(ひでひら)の次男。母は藤原基成の娘。奥州藤原氏の4代。陸奥(むつ)・出羽(でわ)押領使(おうりょうし)。文治(ぶんじ)5年源頼朝の圧力により,平泉で源義経を殺害。同年幕府の征討軍をむかえて敗れ,9月3日蝦夷(えぞ)地にのがれる途中で家臣の河田次郎に殺された。35歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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藤原泰衡
ふじわらのやすひら
1155〜89
平安末期の陸奥国の豪族。奥州藤原氏第4代
秀衡の2男。父の死後陸奥国押領使となり,遺言に抗しきれず源義経をかくまったが,頼朝の圧迫により義経を攻め殺した。1189年頼朝に攻められ敗死,奥州藤原氏は滅亡した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の藤原泰衡の言及
【奥州征伐】より
…1189年(文治5)源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を攻撃し,これを滅亡させた戦い。奥州藤原氏と源頼朝は早くから対立的であったが,藤原秀衡が源義経をかくまうに及んで,それは決定的なものとなった。…
【平泉文化】より
…平安時代末の12世紀,[奥州藤原氏]代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には[中尊寺](ちゆうそんじ),[毛越寺](もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は[藤原清衡](きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…
※「藤原泰衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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