精選版 日本国語大辞典 「陽成天皇」の意味・読み・例文・類語
ようぜい‐てんのう ヤウゼイテンワウ【陽成天皇】
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第57代に数えられる平安前期の天皇。在位876-884年。清和天皇の第1皇子。母は藤原長良の娘で,基経の妹にあたる高子。諱(いみな)は貞明。869年(貞観11)に皇太子に立てられ,876年清和天皇退位のあと9歳で践祚。基経は引き続き摂政として政治の実権を握り,880年(元慶4)には関白に任ぜられた。天皇は882年に元服の儀を終えたころから基経と対立するようになり,宮中での殺人事件などが原因となって884年に退位,二条院に移った。基経が陽成天皇の廃位を行ったことは,後世〈藤氏の三功〉の一つに数えられた。上皇として例のない長寿を保った陽成院には,陸奥に下向させた滝口道範が習得してきた妖術を習った話や,三種の神器を持ち出した話など,数々の説話が伝えられている。《後撰集》に収められた天皇の〈つくばねの峰よりおつるみなの河恋ぞつもりて淵となりける〉の歌は,百人一首で知られている。陵墓は京都市左京区の神楽岡東陵。
執筆者:大隅 和雄
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第57代天皇(在位876~884)。清和(せいわ)天皇第一皇子。母は藤原基経(もとつね)の妹高子(たかいこ)。諱(いみな)は貞明。藤原良房(よしふさ)の邸染殿第(そめどのだい)に生まれ、3か月にして皇太子となり、そのまま染殿第で育った。9歳で清和天皇の譲位を受けて即位し、基経が前代に引き続いて摂政(せっしょう)となった。しかしその後数年にして天皇は乱行多く、881年(元慶5)ころから基経と対立が続いた。883年には天皇の乳母(めのと)紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺したり、馬を愛好して宮中でひそかに飼わしめるなどのことがあった。ここに至って天皇と基経との対立は極に達し、翌年2月天皇は自ら病気を理由に譲位した。陵墓は京都市左京区神楽岡(かぐらおか)東陵。
[福井俊彦]
『目崎徳衛著『平安王朝――その実力者たち』(1965・人物往来社)』
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(瀧浪貞子)
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868.12.16~949.9.29
在位876.11.29~884.2.4
清和天皇の第1皇子。名は貞明(さだあきら)。母は藤原長良(ながら)の女高子(たかいこ)。2歳で皇太子に立ち,876年(貞観18)清和の譲位をうけて践祚した。883年(元慶7)陽成は殿上で殺人事件をおこし,翌年17歳で退位に追いこまれた。皇位を失ったのちも,元来は正統の地位にあったとの意識をもち続けたようであり,宇多天皇を「家人」とよんだとも伝えられる。
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