陽成天皇(読み)ヨウゼイテンノウ

デジタル大辞泉 「陽成天皇」の意味・読み・例文・類語

ようぜい‐てんのう〔ヤウゼイテンワウ〕【陽成天皇】

[869~949]第57代天皇在位876~884。清和天皇の第1皇子。名は貞明さだあきら。清和天皇の譲位により即位したが、乱行多く、関白藤原基経により廃された。

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精選版 日本国語大辞典 「陽成天皇」の意味・読み・例文・類語

ようぜい‐てんのうヤウゼイテンワウ【陽成天皇】

  1. 第五七代の天皇。名は貞明(さだあきら)。清和天皇の第一皇子。母は藤原長良の女高子。貞観一八年(八七六)に即位し、元慶八年(八八四)に光孝天皇に譲位した。御陵は京都市左京区の神楽岡東陵(かぐらおかひがしのみささぎ)。貞観一〇~天暦三年(八六八‐九四九

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改訂新版 世界大百科事典 「陽成天皇」の意味・わかりやすい解説

陽成天皇 (ようぜいてんのう)
生没年:868-949(貞観10-天暦3)

第57代に数えられる平安前期の天皇。在位876-884年。清和天皇の第1皇子。母は藤原長良の娘で,基経の妹にあたる高子。諱(いみな)は貞明。869年(貞観11)に皇太子に立てられ,876年清和天皇退位のあと9歳で践祚。基経は引き続き摂政として政治実権を握り,880年(元慶4)には関白に任ぜられた。天皇は882年に元服の儀を終えたころから基経と対立するようになり,宮中での殺人事件などが原因となって884年に退位,二条院に移った。基経が陽成天皇の廃位を行ったことは,後世〈藤氏の三功〉の一つに数えられた。上皇として例のない長寿を保った陽成院には,陸奥に下向させた滝口道範が習得してきた妖術を習った話や,三種の神器を持ち出した話など,数々の説話が伝えられている。《後撰集》に収められた天皇の〈つくばねの峰よりおつるみなの河恋ぞつもりて淵となりける〉の歌は,百人一首で知られている。陵墓は京都市左京区の神楽岡東陵。
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百科事典マイペディア 「陽成天皇」の意味・わかりやすい解説

陽成天皇【ようぜいてんのう】

平安前期の天皇。在位876年−884年。諱(いみな)は貞明(さだあきら)。清和天皇の第1皇子,母は藤原長良の女(むすめ),藤原基経の妹高子。876年清和天皇の譲位を受け践祚(せんそ),基経が摂政となり政治の実権を握った。天皇は882年の元服のころから基経と対立するようになり,884年退位,二条院(陽成院)に移った。陽成院には三種の神器を持ち出した話など,数々の説話が伝えられる。
→関連項目源融

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「陽成天皇」の意味・わかりやすい解説

陽成天皇
ようぜいてんのう
(868―949)

第57代天皇(在位876~884)。清和(せいわ)天皇第一皇子。母は藤原基経(もとつね)の妹高子(たかいこ)。諱(いみな)は貞明。藤原良房(よしふさ)の邸染殿第(そめどのだい)に生まれ、3か月にして皇太子となり、そのまま染殿第で育った。9歳で清和天皇の譲位を受けて即位し、基経が前代に引き続いて摂政(せっしょう)となった。しかしその後数年にして天皇は乱行多く、881年(元慶5)ころから基経と対立が続いた。883年には天皇の乳母(めのと)紀全子(きのまたこ)の産んだ源益(みなもとのみつ)を殺したり、馬を愛好して宮中でひそかに飼わしめるなどのことがあった。ここに至って天皇と基経との対立は極に達し、翌年2月天皇は自ら病気を理由に譲位した。陵墓は京都市左京区神楽岡(かぐらおか)東陵。

福井俊彦

『目崎徳衛著『平安王朝――その実力者たち』(1965・人物往来社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陽成天皇」の意味・わかりやすい解説

陽成天皇
ようぜいてんのう

[生]貞観10(868).12.16. 京都
[没]天暦3(949).9.29. 京都
第 57代の天皇 (在位 876~884) 。名,貞明。清和天皇の第1皇子。母は尊称皇太后藤原高子。貞観 18 (876) 年践祚,同 19年1月即位したが,外伯父の藤原基経が関白として政務をとった。天皇は狂躁性があり素行欠陥が少くなかったので,元慶8 (884) 年廃された。この廃立の際,左大臣源融が皇胤であることを理由に天皇となることを希望したが,基経の意によって仁明天皇第3皇子時康親王 (光孝天皇) に議決したという。これにより藤原氏の権威が確立したが,有司を基経の私第につかわして庶事の決議を求めさせたことは,朝政が摂関家の政所に移る素因となった。陵墓は京都市左京区浄土寺真如町の神楽岡東陵。

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朝日日本歴史人物事典 「陽成天皇」の解説

陽成天皇

没年:天暦3.9.29(949.10.23)
生年:貞観10(868)
平安前期の天皇。清和天皇と藤原長良の娘高子の子。諱は貞明。貞観11(869)年,わずか2歳で立太子,元慶1(877)年10歳で即位した。在位8年,病気を理由に譲位したが,宮中で殺人事件(陽成の乳母子源益 が格殺された)を引き起こしたため,藤原基経によって退位させられたというのが真相。『三代実録』には,闘犬,闘鶏を好み,内裏で馬を乗り回したり,動物をひそかに飼うなど異常な行動が記されている。「物狂帝」と伝える『今昔物語集』などの話には冷泉天皇との混同もみられる。譲位後の64年間を陽成院で過ごしたあと,後院のひとつ冷泉院に移り没した。『後撰和歌集』に収める「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」は百人一首にも採録。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「陽成天皇」の解説

陽成天皇 ようぜいてんのう

869*-949 平安時代前期,第57代天皇。在位876-884。
貞観(じょうがん)10年12月16日生まれ。清和天皇の第1皇子。母は藤原高子。父の譲位により9歳で即位。母の兄で藤原良房の養子藤原基経(もとつね)が摂政となり,実権をにぎる。病弱の理由などで,17歳で譲位。天暦(てんりゃく)3年9月29日死去。82歳。墓所は神楽岡東陵(かぐらおかのひがしのみささぎ)(京都市左京区)。諱(いみな)は貞明(さだあきら)。
【格言など】筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵(ふち)となりける(「小倉百人一首」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「陽成天皇」の解説

陽成天皇
ようぜいてんのう

868.12.16~949.9.29

在位876.11.29~884.2.4

清和天皇の第1皇子。名は貞明(さだあきら)。母は藤原長良(ながら)の女高子(たかいこ)。2歳で皇太子に立ち,876年(貞観18)清和の譲位をうけて践祚した。883年(元慶7)陽成は殿上で殺人事件をおこし,翌年17歳で退位に追いこまれた。皇位を失ったのちも,元来は正統の地位にあったとの意識をもち続けたようであり,宇多天皇を「家人」とよんだとも伝えられる。

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367日誕生日大事典 「陽成天皇」の解説

陽成天皇 (ようぜいてんのう)

生年月日:868年12月16日
平安時代前期の第57代の天皇
949年没

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