深堀陣屋跡
ふかほりじんやあと
[現在地名]長崎市深堀町
肥前佐賀藩家老の深堀鍋島家の陣屋跡。天正一五年(一五八七)深堀氏は豊臣秀吉により所領を没収され、長崎代官鍋島直茂の支配に替えられた。一時期嘉世庄(現佐賀市)に隠居していたが、朝鮮半島への出兵に参戦するなど深堀純賢は直茂の重臣の一人に取立てられ、旧領を回復されるものの、没収されて豊前小倉城(現福岡県北九州市小倉北区)城主毛利吉成領であった川原村(現三和町)、高浜村・野母村(現野母崎町)は復することがなく、これらに代わって筑前国の戸萱・平山(現未詳)の両村一千石を給されたという(「深堀茂宅由緒」佐賀県立図書館蔵)。純賢はのち鍋島茂宅と改め、さらに佐賀藩主二代勝茂の命で重臣石井氏の夫人を後妻とし、その次男茂賢を養子とすることで、佐賀藩鍋島家の家臣団に組込まれた。これ以後佐賀藩の家老職を代々勤め、多くは官左衛門か七左衛門を称して、茂賢のあと茂里・茂春・茂久・茂厚・茂雄・茂陳・茂矩・茂辰・茂勲と継いでいる。
深堀領と称される同家が知行した所領は、肥前国彼杵・高来の両郡内の深堀郷とよばれた諸村および肥前国三根郡・神崎郡にわたる四郡四郷二七ヵ村・高六千石・地米二千六二九石であった。大小配分石高帳では鍋島左馬助(純賢)領として、彼杵郡内の深堀本村や蚊焼村(現三和町)・香焼村(現香焼町)・黒崎村(現外海町)など一四ヵ村・地米九六九石余、高来郡内の為石村(現三和町)・御崎村(現野母崎町)・早見村(現諫早市)・八丁分村(現飯盛町)・深海村(現高来町)など一〇ヵ村・地米九二四石余、三根郡綾部郷(現佐賀県中原町)一ヵ村・地米三七二石余、神崎郡上西郷(現未詳)など二ヵ村・地米二三二石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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