深堀村(読み)ふかほりむら

日本歴史地名大系 「深堀村」の解説

深堀村
ふかほりむら

[現在地名]長崎市深堀町

平山ひらやま村の北西にあり、北西部は海に臨む。南にしろ山がある。長崎浦の北西に浮ぶかみノ島は当村の属島であったとされる。「ふかぼり」ともいう。平氏打倒を謀議したとして配流された俊寛の伝説が伊王いおう(現伊王島町)にあるが、それにちなんで有王・亀王の伝承が残される。また八郎はちろう岳に鎮西八郎為朝が登ったという伝承がある。中世から深堀などとみえ、御家人深堀氏の拠点となった。江戸時代は肥前佐賀藩家老の深堀鍋島家が当地に陣屋を構え、深堀郷を知行した。慶長五年(一六〇〇)イエズス会のガスパール・デ・クラスト神父が長崎から深堀にわたる宣教に出掛け、同一二年には同会のレジデンシアがあってクラストが居住していた。同一四年にはクラストのほか神学生三人・小者五人が居住していた(シュッテ「日本歴史史料集」I)。ドミニコ会のメーナ神父は同一一年頃に長崎はま町に教会を建てた(パジェス「日本切支丹宗門史」)。同一二年「伊佐早庄深堀」の者が伊勢参宮に赴いている(「御参宮人帳」橋村家文書)。一六一四年頃、深堀という町の若者ルイスがその地の殿からキリシタンたることをやめよと迫られ、ある日首をはねられ、多くの石を身につけ、海に投込まれたという(アビラ・ヒロン「日本王国記」)


深堀村
ふかぼりむら

[現在地名]大石田町豊田とよだ

尾花沢おばなざわ盆地の西部、最上川と丹生にゆう川の合流点の南に位置し、東は丹生川を挟んでいわふくろ村、西は最上川、南東は大石田村。元和八年(一六二二)最上氏改易後は山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領となる。正保郷帳では田高四九五石余・畑高三七石余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)によると高五九五石余、家数七一・人数三五八、馬一〇、御囲籾二五石。同八年の諸願書覚留帳(工藤文書)によると、前年の最上川洪水は「何拾年ニも老人共聞伝ニも覚無之大変ニて、家居屋敷ニ至迄流失、田畑共川欠石砂置等ニ罷成、悉ク皆損出来仕」という状況であった。天明八年(一七八八)の村明細帳写(柳橋文書)では家数七〇・人数三七二、馬八。


深堀村
ふかぼりむら

[現在地名]湯沢市深堀

横手盆地南部、雄物川左岸にあり、村の南西には、作内さくない川のつくる扇状地が発達する。東は雄物川を隔てて湯沢町、南は山田やまだ村、西は松岡まつおか村、赤袴あかはかま村(現雄勝おがち郡羽後町)、北は貝沢かいざわ(現羽後町)倉内くらうち村に接する。

奥羽永慶軍記」に、深堀村の土豪で小野寺氏の有力家臣深堀左馬は、文禄四年(一五九五)九月、最上勢が湯沢城・岩崎いわさき城を攻めた時に、「心替シテ最上ニ組ス」と記されるが、慶長五年(一六〇〇)一〇月二二日の西馬音内則道宛小野寺義道書状(秋田藩家蔵文書)に、「自其口深堀へ鉄炮十挺、鎚廿被指入可給候、彼処如何共成候ヘハ、其口も悪敷候間、かたく可被持置候」とあり、小野寺氏が西馬音内氏に深堀への増援を命じている。


深堀村
ふかほりむら

[現在地名]大原町深堀

寄瀬よせ村の北に位置し、村の中央で塩田しおた川と新田につた川が合流して太平洋へ注ぐ。塩田浦があり、南北に伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。寛喜元年(一二二九)九月三日の関東御教書(深堀文書)に「上総国御家人深堀五郎能仲」とみえる深堀氏は、当地を本貫とするとみられる。当時同氏は伊南庄御牧の別当職を相伝していた。江戸時代には中期まで内野うちの村に含まれていたが、延宝五年(一六七七)武蔵国忍藩主阿部正能の死去に伴い、同藩領の内野村が藩主を継いだ正武の弟に分知され、それを機に一村扱いとなった。同年の中滝領分知帳(中村家文書)に内野郷之内深堀村とみえ、高四〇一石余で旗本阿部二千石領のうち。


深堀村
ふかぼりむら

[現在地名]山辺町山辺

山野辺やまのべ村の南東、川の西岸に位置する。元和八年(一六二二)山形藩領、正保元年(一六四四)幕府領、寛文八年(一六六八)旗本高力領となり、幕末まで同氏領。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高一千三一九石余。天保郷帳では高一千三七〇石余。旗本高力氏は領内の有力農民に所務を行わせたが、当初は当村の佐藤忠右衛門家があたったため、同家は通称でお代官といわれた。用水は玉虫たまむし溜井を利用、同用水の水掛水田は九町三畝、また釣樋つるしび上江うわえ掛りの村方でもあった。


深堀村
ふかぼりむら

[現在地名]函館市深堀町・川原町かわはらちよう

明治六年(一八七三)から同一二年までの村。松倉まつくら川の支流さめ川の流域にある。安政年間(一八五四―六〇)以降下湯川しもゆのかわ村で田畑が開拓され、深堀御手作場とよばれた(「杉浦海潭箱館奉行日記」慶応二年六月一日条)。慶応四年(一八六八)農夫惣代頭取が他の二ヵ所の御手作場とともに一村立になる事を願出、許されて深堀郷と唱えた(箱館蝦夷地在勤中諸用留)


深堀村
ふかほりむら

[現在地名]京ヶ瀬村深堀

阿賀野川右岸に位置し、北東は法柳ほうやぎ村、南は下黒瀬しもぐろせ村。近世は新発田藩岡方組の十四ヶ村組に属し、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数一四・人数一〇九とある。明和四年(一七六七)の所々橋々覚書帳(豊栄年表資料)によると新江しんえ用水の深堀橋より法柳堰まで七六〇間で、この間に橋四ヵ所、分水五ヵ所があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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