日本歴史地名大系 「深大寺村」の解説 深大寺村じんだいじむら 東京都:調布市深大寺村[現在地名]調布市深大寺元町(じんだいじもとまち)一―五丁目・深大寺北町(じんだいじきたまち)一―七丁目・深大寺東町(じんだいじひがしまち)一―八丁目・深大寺南町(じんだいじみなみまち)一―五丁目・調布ヶ丘(ちようふがおか)三―四丁目・西つつじヶ丘(にしつつじがおか)一丁目・同三―四丁目・菊野台(きくのだい)三丁目・柴崎(しばさき)二丁目佐須(さず)村の北西にある。南側に国分寺崖線があり、武蔵野台地上に広がる。宿(しゆく)・山野(さんや)・又住(またずみ)・野ヶ谷(のがや)・絵堂(えどう)の五つの小名から構成され、宿は南東、山野は西方、又住は南方、野ヶ谷は東方から北方、絵堂は東方をいう。絵堂は深大寺の絵馬堂跡といわれ、御塔坂(おとうざか)は塔跡、二王坂は仁王門跡と伝える(風土記稿)。村名は深大寺による。「関東合戦記」によると、永享一〇年(一四三八)鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲実を討つため武蔵府中に出陣したとき、下総守護千葉胤直はこれに随行したが、持氏が室町幕府の追討軍を防ぐため相模へ向かうと、胤直はこれに従わず、府中から「神大寺原」に出て、下総国市川に陣したという。「神大寺原」とは深大寺の北方の平原をさすのであろう。北条氏所領役帳の太田大膳亮知行分のなかに「拾一貫五百文甲寅検地辻 深大寺屋敷分」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by