佐須村(読み)さずむら

日本歴史地名大系 「佐須村」の解説

佐須村
さずむら

[現在地名]調布市佐須町一―五丁目・深大寺南町じんだいじみなみまち三丁目・調布ヶ丘ちようふがおか三丁目・深大寺元町じんだいじもとまち二丁目

柴崎しばさき村の西にある。南を川が南東ヘ流れ、国分寺崖線の南側を深大寺村から甲州道中へ通じる佐須街道(佐須村道)が東西に横切る。村名は名主三郎右衛門の先祖が佐須豊後(鎮守稲荷社神職)と名乗っていたことに由来し、のちに佐須氏は温井氏と改めたという(風土記稿)。田園簿に佐須村とみえ、田六四石余・畑四八石余。江戸時代を通じて伊賀衆の一給支配地(旧高旧領取調帳など)。明治六年(一八七三)の反別は田一八町余・畑屋敷二六町六反余、畑・野地・山地五町八反余、大縄田二畝(「酉年租税割付」富沢家文書)。化政期の家数四一(風土記稿)。明治六年の家数三三、うち二九戸が農業、二戸が農間水車稼、二戸が農間居酒屋を兼業している(「数目取調」富沢家文書)

当村は柴崎・金子かねこ大町おおまち小足立こあだち覚東がくとう和泉いずみ岩戸いわど(現狛江市)の各村とともに野川用水組合八ヵ村に属し、享保一一年(一七二六)から玉川上水の国分寺村上流からの分水を幕府に願出て田一反当り二斗の水役米を定めた。利用面積は佐須村三町・金子村五町七反・大町村三町五反・柴崎村四反など計一八町三反余である(「玉川上水分水役米上納連判証文」金子家文書)。延享二年(一七四五)からは玉川上水分水樋口を牟礼むれ(現三鷹市)に譲り、野川から水を引くようになる(寛政一〇年「野川用水組合七ヵ村訴状」石井家文書)

佐須村
さすむら

[現在地名]飯舘村佐須

西端の三郷さんごう森の山麓を水源として東流する真野まの川上流域に位置し、東は大倉おおくら村。北西端の佐須峠を越え、伊達郡石田いしだ(現霊山町)に至る。明暦二年(一六五六)に大倉村から分村し、同年の高一九石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高一九石余。安永三年(一七七四)の高七六石余・免四ツ二分、ほかに新田二二石余がある(「山中郷年貢皆済目録」飯舘村史)。嘉永四年(一八五一)の高六六石余・免二ツ九分(「山中郷本田新高帳」同書)。天明三年(一七八三)の家数四〇、嘉永元年の家数一九(検地石高収納戸口等調)。旧高旧領取調帳では高一二八石余。低生産を補うために馬産や木炭の生産に力を入れ、伊達郡方面に萱を売っていたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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