日本歴史地名大系 「調布市」の解説 調布市ちようふし 面積:二一・五三平方キロ都の中央南部、多摩地域東端の二三区境、多摩川左岸に位置する。東は狛江(こまえ)市・世田谷区、北は三鷹市・小金井市、西は府中市に接し、南は多摩川を挟んで稲城(いなぎ)市と神奈川県川崎市多摩区に接する。地形は北高南低の階段状で、北西から南東方向に向かって標高約五七メートルから二四メートルへ傾斜している。北部は武蔵野段丘上にあり、北東には仙(せん)川・入間(いりま)川が南東へ流れる。国分寺崖線を境界として市域中央部分は立川段丘上にある。野(の)川は立川段丘上を北西から南東へ流れる。多摩川の氾濫原である多摩川低地は府中崖線の下に広がり、多摩川が市域南端を南東へと流れる。甲州街道(国道二〇号)・京王線が市域中央部、東八道路が北部をそれぞれ東西に横断する。北東から南西方向に中央自動車道が通り、調布インターチェンジがある。また南北に鶴川街道(主要地方道町田―調布線)・武蔵境通(主要地方道調布―田無線)が通る。西部の調布基地跡地には東京都調布飛行場や東京スタジアム、福祉施設・スポーツ施設などがある。〔原始・古代〕旧石器時代の遺跡は野川流域の野川(のがわ)遺跡で代表され、上層から尖頭器、ナイフ形石器、礫器の層序で文化層が確認されている。縄文時代は中期に柴崎(しばさき)の原山(はらやま)遺跡、飛田給(とびたきゆう)の飛田給遺跡で継続的な集落がみられ、原山遺跡から出土した彩文を有する人面有孔鍔付土器が知られる。後期は布田(ふだ)の上布田遺跡で敷石住居跡、下石原(しもいしわら)の下石原遺跡で土壙群がみられ、晩期は安行式土器を主体とする布田の国指定史跡下布田遺跡で代表される。同遺跡の遺構としては配石遺構・合口甕棺墓、出土遺物には大型土製耳飾・石冠・土版のほか製塩土器などがある。弥生時代は後期の住居跡が沖積低地である染地(そめち)の染地遺跡でみられるが、その分布は僅少である。古墳時代は円墳を主体とする小規模な古墳群が立川段丘縁辺部に分布するが、いずれも墳丘部は消滅している。布田の下布田古墳群では六世紀前半から七世紀代の古墳が一三基確認されており、うち狐塚(きつねづか)古墳はもっとも大型で墳丘部の径が約四〇メートルと推定され、石室は川原石と切石を併用した横穴式である。副葬品として直刀・小刀・鏃・刀子が出土している。また深大寺元(じんだいじもと)町の段丘斜面には御塔坂(おとうざか)横穴古墳群が分布する。古代の集落は段丘縁辺部に飛田給遺跡、小島(こじま)町の小島町(こじまちよう)遺跡、深大寺元町の深大寺城山(じんだいじしろやま)遺跡、入間(いりま)町の入間町城山(いりまちようしろやま)遺跡、沖積低地に染地遺跡がある。同遺跡など律令期の集落跡からは墨書土器、灰釉・緑釉陶器、下布田遺跡(低地面)からは鋤・鍬などの木製品が出土している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「調布市」の意味・わかりやすい解説 調布〔市〕ちょうふ 東京都西部,多摩川の中流北岸にある市。1955年調布町と神代町が合体して市制。東は東京都世田谷区,南は多摩川を隔てて神奈川県川崎市。古くから開発され,地名は大化改新の税制で,調として布を貢じたことに由来。江戸時代には甲州街道の宿場町として繁栄。1913年京王帝都電鉄が開通し,工場や住宅が進出。第2次世界大戦後は電気器具,ゴム,化学,食品工場が立地し,多くの住宅団地が建設された。深大寺,神代植物公園,調布飛行場などがある。布田には縄文時代の遺跡,下布田遺跡 (国指定史跡) がある。北部を中央自動車道が通り,インターチェンジが立地。面積 21.58km2。人口 24万2614(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by