深大寺(読み)ジンダイジ

デジタル大辞泉 「深大寺」の意味・読み・例文・類語

じんだい‐じ【深大寺】

東京都調布市にある天台宗の寺。山号は浮岳山。初め法相ほっそうだった。開創は天平5年(733)、開山は満功まんくうという。寺宝の金銅釈迦如来像白鳳時代のもの。

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精選版 日本国語大辞典 「深大寺」の意味・読み・例文・類語

じんだい‐じ【深大寺】

  1. 東京都調布市深大寺元町にある天台宗の寺。山号は浮岳山。もと法相宗。天平五年(七三三)満功の開創と伝えられる。貞観年間(八五九‐八七七)恵亮のときに改宗。室町時代世田谷の領主吉良氏が再興した。寺宝の金銅釈迦如来倚像は関東ではまれな白鳳仏で、国の重要文化財。昌楽院。厄除元山大師。周辺に蕎麦屋が多くある。

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日本歴史地名大系 「深大寺」の解説

深大寺
じんだいじ

[現在地名]調布市深大寺元町五丁目

市北部、武蔵野段丘の南縁に位置する。浮岳山昌楽しようらく院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。「深大寺縁起」によれば、天平五年(七三三)に満功により創建されたという。満功は福満という旅の若者とかしわの里の長者の娘が周囲の反対にもかかわらず深沙大王の助力により結ばれ、その間に生れた子と伝える。これとは別に室町期の深大寺僧長弁の「私案抄」は天平宝字六年(七六二)に創建されたと記している。ともに中世における伝承に依拠するもので、信憑性があるとはいえないだろう。ただし当寺には白鳳期に作られたと考えられる釈迦如来倚像がある。国の重要文化財に指定されており、関東では国分寺市の武蔵国分寺遺跡出土観音菩薩像などとともに最古の仏像に属している。伝来が不詳なので、この仏像をもって深大寺の創建を議論することはできないが、当寺は相当に古くからの名刹であったといえよう。深沙じんじや堂本尊の深沙大王像(秘仏)は仏教の水神であり、泉水の湧出する深大寺周辺の景観と密接に関係していると解される。深大寺の寺名も深沙大王を省略したものだという。しかし深沙大王を深大と略称するかとなると疑問があり、見直す必要があるように思われる。調布市域内外は「和名抄」の多磨たま狛江こまえ郷に含まれ、渡来系の人々が多数入植していたとみられる。入間町城山いりまちようしろやま遺跡で検出された「高大寺」と読める土器の墨書銘は、「高麗大寺」の意と解される。となると入植した高麗人らが仏教信仰を持込み寺院を建立していたことになるが、神は「こう」とも読めることから、高大こうだい寺が神大こうだい寺となり、次いで神大じんだい寺が深大寺となったという変遷が一つの推論としてあり得るようである。なお奈良朝の段階では法相宗であったが、貞観期(八五九―八七七)に天台宗に改宗したと伝える。

「風土記稿」に鎌倉幕府の御家人某が寺内へ乱入し放火したため堂塔以下を焼失したと伝えているが、それが事実であったとしてもまもなく再興されたとみえ、以下のように数々の宗教活動を反映する文化財や文筆作品が残されている。寺名を記す最古の資料は当寺旧蔵の文永四年(一二六七)一〇月日の銅製磬銘(現神奈川県相模湖町善勝寺蔵)で、裏面に「武州深大寺 深沙王堂 (磬カ)一面」と陽刻される。当寺には次の(一)―(四)のような中世の優れた彫像が存在する。(一)本堂本尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の特色を有し、背板内部に永享八年(一四三六)九月五日五二代院主法印長弁の墨書修補銘があり、「武州深大寺常行堂 阿弥陀如来奉修復事」とある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「深大寺」の意味・わかりやすい解説

深大寺(寺)
じんだいじ

東京都調布市深大寺元町にある天台宗の寺。浮岳山(ふがくさん)昌楽院(しょうらくいん)と号する。本尊は恵心僧都(えしんそうず)(源信)作と伝える阿弥陀如来(あみだにょらい)。寺名は、湧水(わきみず)の豊かなこの地に祀(まつ)られた水神深沙(じんじゃ)大王にちなむという。733年(天平5)満功(まんくう)の開創と伝えられ、初めは法相(ほっそう)宗に属したが、貞観(じょうがん)年間(859~877)に大楽(だいらく)大師恵亮(えりょう)が再興して天台宗に改宗。991年(正暦2)、元三(がんさん)大師(慈恵(じえ)大師、良源)が人々を救いたいという大願により自刻像をつくり、高弟慈忍和尚(じにんおしょう)と恵心僧都が東国を導くためその尊像を深大寺に移して祀り、以後関東第一の密教道場として大いに栄えた。室町時代、北条氏の家臣世田谷の吉良(きら)氏の信仰を受けて再興。1590年(天正18)北条氏の滅亡によって衰微したが、江戸時代になって徳川家康の守護不入朱印状(ふにゅうしゅいんじょう)によって保護され、寺領50石の寄進を受けて再建された。寺宝の銅造釈迦如来(しゃかにょらい)倚像(いぞう)は関東で数少ない白鳳(はくほう)時代(645~710)の古仏、また梵鐘(ぼんしょう)は永和(えいわ)2年(1376)の刻銘があるもので、いずれも国重要文化財。なお、名物深大寺そばは江戸時代には門前で栽培され将軍家に献上された。境内には本堂、元三大師堂、深沙大王堂などがあり、雑木林に覆われており、高浜虚子像ほか文学碑も多い。例年3月3・4日は元三大師大祭で、厄除(やくよ)け・諸願成就の大護摩(ごま)供養が行われる。当日は七転八起(ななころびやおき)の縁起だるま市があり、参詣(さんけい)者でにぎわう。

[中山清田]


深大寺(地区)
じんだいじ

東京都調布市北部にある地区。武蔵野(むさしの)台地上に位置し、深大寺、深大寺城跡がある。1961年(昭和36)開園の都立神代植物公園(じんだいしょくぶつこうえん)(2010年5月現在約48万6537平方メートル)には、約4800種類の植物が植えられ、大温室、植物多様性センターなどの施設がある。

[編集部]

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改訂新版 世界大百科事典 「深大寺」の意味・わかりやすい解説

深大寺 (じんだいじ)

東京都調布市にある天台宗の寺。山号は浮岳山。寺伝によれば,733年(天平5)満功上人の開基とされる。満功は福満童子が水神深沙大王(深沙大将)に助けられ,武蔵柏野の里の長者の家に入婿して生まれた子で,後に法相宗の奥旨を極めたと伝える。寺地は武蔵野台地の谷に位置しており,多くの湧泉が周囲にあることからこうした水神説話が生まれた。創建当初,宗旨は法相宗であったが,貞観年間(859-877)恵亮が住持のときに天台宗に改宗した。中世に入り一時衰退したが,1591年(天正19)徳川家康が寺領50石を寄進し再興にあたっている。寺宝に釈迦如来像(重要文化財)があり,千葉県の竜角寺蔵薬師如来像とともに関東地方での白鳳期金銅仏の代表例である。毎年3月3,4日のだるま市には,厄よけだるまを買い求める人々でにぎわう。寺の周囲は江戸時代にはソバ粉の産地として知られ,現在でも門前には〈深大寺そば〉の店が二十数軒ある。付近には戦国時代平山城の一つである深大寺城址,1961年に開園した都立の神代植物公園などもあり,武蔵野の景観を残している。
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百科事典マイペディア 「深大寺」の意味・わかりやすい解説

深大寺【じんだいじ】

東京都調布市深大寺元町にある天台宗の寺。奈良時代に満功上人が法相宗の寺として開創し,平安初期に天台宗になる。本尊の金銅釈迦如来倚像(いぞう)は白鳳(はくほう)時代の傑作。門前のだるま市と深大寺そばも有名。隣接する都立神代(じんだい)植物公園は広さ約26万m2で,約3000種,10万本の植物を有し,東京郊外の行楽地になっている。
→関連項目調布[市]

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デジタル大辞泉プラス 「深大寺」の解説

深大寺

東京都調布市にある寺院。天台宗別格本山。733年開創と伝わる。「白鳳仏」と呼ばれる銅造釈迦如来像は国宝に指定。3月のだるま市や、門前の“深大寺そば”で有名。

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世界大百科事典(旧版)内の深大寺の言及

【満功】より

曾我兄弟の母の名。または東京都調布市の深大(じんだい)寺など,各地の霊山の開基の僧の名。マンコウは満行(江,紅),万劫(公)などとも書く。…

※「深大寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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