日本歴史地名大系 「清藤村」の解説 清藤村きよふじむら 鹿児島県:日置郡伊集院町清藤村[現在地名]伊集院町清藤下谷口(しもたにぐち)村の北東、猪鹿倉(いがくら)村の東に位置する。西流する石谷(いしだに)川と中央部で合流する長松(ちようまつ)川が猪鹿倉村に流れる。両川の流域には水田が開けているが、両川の間や南部一帯は標高一五〇メートル前後の丘陵地帯。ほぼ中央を出水(いずみ)筋が通り、道沿いに井出原(いではら)・中村(なかむら)・大迫(おおさこ)・鍋(なべ)ヶ原(はら)の集落がある。建久四年(一一九三)の薩摩国諸郡注文(宮之城記)に「伊集院 清藤名」とみえる。鎌倉時代後期と推定される薩摩伊集院分造宇佐宮用途支配注文(島津家文書)によれば、清藤は豊前宇佐宮造営用途四四疋・人夫食料米九斗を賦課されている。 清藤村きよふじむら 熊本県:下益城郡富合町清藤村[現在地名]富合町廻江(まいのえ) 清藤東は廻江村、南は新(しん)村・志々水(しじみず)村、西は国町(こくちよう)村と接する。西端部を近世の薩摩街道が走る。中世は守富(もりどみ)庄内にあった。文永四年(一二六七)一月二〇日、京都三聖(さんしよう)寺方丈に宛てた尼玄海寄進状(山城万寿寺文書)に「きよ松・いまふちのミやう、えのきつにいりましハりて候ハむハ、いまよりのちハ、えのきつにつけさせ候ぬる□(にカ)候」とあり、「きよ松・いまふち」の両名が当村の母体となったと思われる。また甲佐社神田注文(阿蘇家文書)に「小一祝分 三町居合田」として「一町外平」とみえるが、古い字名に外平・居合がみえる。守富庄居合田の一部の遺名とも考えられる。慶長国絵図に清藤廻江村と記載され、慶長一二年(一六〇七)に清藤村検地帳が作成されている(「肥後豊後検地諸帳目録」県立図書館蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by