清須城下(読み)きよすじようか

日本歴史地名大系 「清須城下」の解説

清須城下
きよすじようか

文明一〇年(一四七八)頃、尾張の守護所がここに移され、清須城が営まれて以降、慶長末年に清須城、および城下名古屋に移されるまでの約一五〇年間、清須は尾張の中心であった。清須の名は「神鳳鈔」に「清須御厨」とみえているのが初見。文和二年(一三五三)の宗可寄進状案(妙興寺文書)に「中嶋郡草部くさかべ保内」として「一所 六町 清須光孝寺」とある。中島郡草部は現在の稲沢市日下部くさかべ町であろうが、清須の地はこのように中島郡ともみえている。応安二年(一三六九)の公役納法下地等注文(同文書)に「八瀬郷内清須畠 七百五十文」とあるが、八瀬郷については知るところがない。清須を中島郡としたものには長楽ちようらく(現名古屋市)蔵の懸鏡に「荒井弥八郎 尾州中嶋郡清洲郷 天文四年二月吉信(ママ)家」の銘文がある。

禅僧正徹は応永二五年(一四一八)清須に数ヵ月滞在した時のことを「なぐさめ草」に記している。

<資料は省略されています>

文明一〇年頃、尾張の守護代織田敏定は尾張二郡(海西郡・愛智郡)の支配権を獲得して、守護所を下津おりづ(現稲沢市)から清須に移した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報