源智(読み)げんち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「源智」の意味・わかりやすい解説

源智
げんち
(1183―1238)

鎌倉前期の浄土宗の僧。法然の側近。号は勢観房(せいかんぼう)。平師盛(もろもり)の子。1195年(建久6)法然の門に入り、慈円(じえん)について出家、ほどなく帰参して、法然に常隋、本尊、房舎、聖教(しょうぎょう)などを相承し、「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」を授けられ、また法然の『三昧発得記(さんまいほっとくき)』を秘蔵していた。法然没年の1212年(建暦2)師恩に酬いるため、道俗に勧進して、阿弥陀仏像を造立。この像内には源智自筆の願文(がんもん)と4万数千人に及ぶ結縁者交名(けちえんしゃきょうみょう)が納められており、仏教大学玉桂寺(ぎょくけいじ)阿弥陀如来立像胎内文書調査団編『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』(1981・玉桂寺)で紹介された。賀茂社(かもしゃ)近くに居を占めて知恩寺(ちおんじ)の基を開き、紫野(むらさきの)門徒と呼ばれる念仏衆を擁した。1234年(文暦1)に東山大谷の法然廟を修理し、堂舎を営み、寺院化(知恩院)を進めた。

[伊藤唯真]

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朝日日本歴史人物事典 「源智」の解説

源智

没年:暦仁1.12.12(1239.1.18)
生年:寿永2(1183)
鎌倉前期の浄土宗の僧。父は平師盛。平家没落後,母と共に源氏探索から逃れ,13歳で法然門下に入る。そのあとに慈円のもとで出家する。長く法然に随侍し,円頓戒を受け,つぶさに浄土の法門を伝える。法然から厚い信頼を受け,本尊,大谷の坊舎,円頓戒の道具などを譲り受ける。法然が臨終の床で書いた「一枚起請文」は,源智が請うて授けられたものであった。法然没後は,賀茂社のかたわらに居を占めて,神宮寺功徳院に住し,隠遁生活を送った。功徳院は,知恩寺の基となる。醍醐寺本『法然上人伝記』の著者でもある。滋賀県・信楽町の玉桂寺の阿弥陀仏像胎内文書のなかに,源智の自筆願文,念仏結縁交名などがあり,ひろく勧進活動に従事していたことが知られている。<参考文献>菊地勇次郎『源空とその門下』

(林淳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源智」の解説

源智 げんち

1183-1239* 鎌倉時代の僧。
寿永2年生まれ。平師盛(もろもり)の子。浄土宗。18年間法然(ほうねん)に近侍し,臨終の際に「一枚起請文(きしょうもん)」をさずけられる。文暦(ぶんりゃく)元年知恩院を再興。また知恩寺の基をつくった。紫野門徒の祖。暦仁(りゃくにん)元年12月12日死去。56歳。号は勢観房。著作に「選択(せんちゃく)要決」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の源智の言及

【一枚起請文】より

…〈一枚消息〉ともいう。1212年(建暦2)1月23日,つねに法然のもとで仕えてきた源智が,師の命終が近いことを知り,没後に門人たちの間で異義の生じることを恐れ,浄土宗の安心起行(あんじんきぎよう)の肝要を懇望したので,法然がこれに応じてみずからしたため源智に授与した。浄土宗では法然の遺訓として最も尊重する。…

【法然】より

…11年(建暦1)冬,ようやく帰洛がかない,大谷の山上の小庵(現在の知恩院勢至堂の地)に入ったが,翌12年正月から病床に臥した。同月23日,源智の懇請で念仏の肝要を一紙にしたため(《一枚起請文》),25日正午ごろわずかな門弟に見守られて,80歳の生涯をとじた。遺骸は臨終の庵室の東崖上に葬られた。…

※「源智」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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