潮江村(読み)うしおえむら

日本歴史地名大系 「潮江村」の解説

潮江村
うしおえむら

[現在地名]高知市うめつじ天神てんじん町・筆山ひつざん町・塩屋崎しおやざき町一―二丁目・百石ひやつこく町一―四丁目・桟橋通さんばしどおり一―六丁目・土居どい町・役知やくち町・潮新うしおしん町一丁目・潮新町・仲田なかた町・北新田きたしんた町・新田しんた町・南新田みなみしんた町・はぎ町・北萩きたはぎ町・みなみまる町・南竹島みなみたけしま町・竹島たけしま町・北竹島きたたけしま町・北高見きたたかみ町・高見たかみ町・六泉寺ろくせんじ町・孕東はらみひがし町・孕西はらみにし町・深谷ふかだに町・南中山みなみなかやま北中山きたなかやま幸崎こうざき小石木こいしき町・大原おおはら町・ごう町・南河みなみごう

かがみ川を隔てて高知城下の南にある。東は浦戸うらど湾に面し、西は石立いしたて村および神田こうだ村、南は横浜よこはま村。村の西部は真如寺しんによじ山・さらみねなどの低山が連なり、南端部には東西に延びる尾根筋をもつ宇津野うつの山がある。浦戸湾に面する東部は低地帯で新田が多い。土佐郡に属し、中世は最御崎ほつみさき(現室戸市)領潮江庄であった。

暦応三年(一三四〇)正月二四日には花園宮満良親王が大高坂おおだかさ城救援のため潮江山に布陣、翌二五日北朝方との決戦が行われている(西岡家文書)。室町から戦国時代にかけての当地域の領主について「南路志」は「往昔潮江の領主は天文・永禄中は山半兵衛・米幸泰・長久兵衛・佐伯満貞と見たり、土佐故事云、或書云、森城主森右近頼実与本山梅慶度々戦争、竟戦死矣、其子千松丸遁岡豊、憑覚正、後潮江城主、号近江矣」と記す。


潮江村
しおえむら

[現在地名]尼崎市潮江一―五丁目・久々知西町くくちにしまち一丁目・はま一―三丁目・尾浜町おはまちよう三丁目

浜村の西に位置する。中世潮江庄の遺称地。殿浜とのはま東大寺とうだいじ大宮おおみや四の坪しのつぼなどの字名が残っていた。慶長国絵図に村名がみえ高八六〇石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では塩江村と記される。大部分は慶長五年(一六〇〇)滝川領となり、旗本滝川領として明治に至る(尼崎市史)。前掲御改帳によると高八五五石余のうち同氏領五五五石余、三〇〇石余は幕府領(建部与十郎預地)で、同年尼崎藩領となる。中西彦左衛門に当村で五〇石を与えた同五年の戸田氏鉄知行状(中西家文書)が残り、同藩の地方知行制が推測される。寛永二〇年(一六四三)分知により尼崎藩領であった三〇〇石余が旗本青山幸通領となる。幸通領は延宝四年(一六七六)秘成襲封の際弟に二六四石余が分知されたが同五年絶家、幕府領となる。天和元年(一六八一)京都所司代稲葉正往(相模小田原藩)領、同三年幕府領、貞享二年(一六八五)大坂城代内藤重頼(信濃高遠藩)領、同四年幕府領にもどる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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