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野中兼山 のなか けんざん

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美術人名辞典の解説

野中兼山

江戸前期の儒者・土佐藩の重臣。名は止、字は良継、通称を伝右衛門。谷時中に朱子学を学ぶ。二代土佐藩主山内忠義のもとで藩政の実権を握り、儒教的理想を政治的実践に結びつけようと努力した。寛文3年(1663)歿、48才。

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デジタル大辞泉の解説

のなか‐けんざん【野中兼山】

[1615~1664]江戸初期の政治家・儒学者。名は良継。谷時中朱子学を学び、土佐藩家老として藩政の確立に尽力。新田開発殖産興業土木工事などに功績が大きかったが、中傷により隠退。著「兼山遺草」「室戸港記」など。

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百科事典マイペディアの解説

野中兼山【のなかけんざん】

江戸初期の朱子学者,南学(土佐(とさ)朱子学)に属する。土佐高知藩の家老。名は良継(よしつぐ)。谷時中(じちゅう)に朱子学を学び,長崎から朱子の書を求め《小学》を翻刻した。
→関連項目大原富枝高知[県]高知藩南国[市]野市[町]春野[町]本山[町]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

野中兼山 のなか-けんざん

1615-1664* 江戸時代前期の武士。
元和(げんな)元年生まれ。土佐高知藩士。谷時中(じちゅう)に南学をまなび,寛永8年奉行職となる。用水路の建設と新田開発,長宗我部(ちょうそかべ)氏の遺臣の郷士取り立て,藩境紛争の処理などの藩政を推進したが,領民,重臣の反感をまねき,寛文3年失脚した。寛文3年12月15日死去。49歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。名は止(し)。字(あざな)は良継。通称は伝右衛門,主計(かずえ)。別号に明夷軒。

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朝日日本歴史人物事典の解説

野中兼山

没年:寛文3.12.15(1664.1.13)
生年:元和1(1615)
江戸時代前期の土佐藩士,政治家,儒者。通称は伝右衛門,主計,伯耆,字は良継,兼山は号。父野中良明と母万の間に姫路で出生と伝える。野中氏は代々土佐藩主山内家の家老の家柄で,兼山の祖母は藩祖山内一豊の妹合姫である。兼山の父は故あって浪人し,兼山の幼時に死去したが,兼山は同族の野中直継の養子となって,その家督を継いだ。寛永8(1631)年に奉行職(執政)就任,寛文3(1663)年に辞職するまで,2代藩主忠義の信任の下,卓越した才幹と剛毅果断な性格で土佐藩政を指導した。彼の施策は,南学の振興,新田開発,土木事業,郷士の取り立て,殖産興業の推進,領民支配の強化,専売制の実施,国境争論など多岐にわたる。これらは,身分秩序の思想的確立,領内の政治的安定と軍事力の強化,経済的生産力の向上といった,初期土佐藩政の課題の全面的解決を目指すものであった。兼山の施政は多大な負担を領民に強いたのでその怨嗟を生み,彼の独裁は藩内部の反発を招き,3代藩主忠豊の信任を失って失脚し,同年病没した。しかし,南学派は山崎闇斎らを通して発展を遂げ,土木事業,殖産興業は藩政の基礎を固めてその成果は後世にまでおよんでおり,兼山の功績は甚大である。<参考文献>平尾道雄・横川末吉編『野中兼山関係文書』,横川末吉『野中兼山』

(高橋文博)

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世界大百科事典 第2版の解説

のなかけんざん【野中兼山】

1615‐63(元和1‐寛文3)
江戸前期,土佐藩の家老。名は良継,通称伝右衛門,一時主計,伯耆と称する。兼山は号で,最晩年は明夷軒という。父野中良明の母は,藩主山内一豊の妹慈仙院。1631年(寛永8)から32年間奉行職を務め,藩政の確立に努めた。朱子学を導入し山崎闇斎を育成し,儒学思想(南学)による封建教化を図った。一方,物部(ものべ)川,仁淀川等の治水灌漑工事により大規模な新田開発を行い,47‐78年(正保4‐延宝6)の間に7万石の新田が作出された。

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大辞林 第三版の解説

のなかけんざん【野中兼山】

1615~1663) 江戸前期の儒学者・藩政家。名は良継。通称、伝右衛門。谷時中に朱子学を学び、南学による封建教化を図った。土佐藩家老として藩財政の確立に努めたが、その厳しい政治に反感が高まり、藩主忠義の死後失脚。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

野中兼山
のなかけんざん

[生]慶長20(1615).1.21. 播磨
[没]寛文3(1663).12.15. 土佐
江戸時代前期の南学派の儒学者,土佐藩の家老。名は止,良継。幼名は佐八郎。通称は伝右衛門。父は野中良明,野中直継の養子となった。谷時中に朱子学を学び,南学の流れを伝えた。家老として土佐藩2代藩主山内忠義に仕え,朱子学を実用に資し,新田を開発し,藩内の産業を奨励し,津呂港の改修,用水路の建設などの土木工事を行い,郷士制度の設立に努めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

野中兼山
のなかけんざん
(1615―1664)

江戸初期の土佐藩の政治家。名は良継(よしつぐ)。伝右衛門、主計(かずえ)、伯耆(ほうき)と称し、号が兼山、明夷軒。慶長(けいちょう)20年6月播磨(はりま)国(兵庫県)姫路に生まれる。父は野中良明(よしあき)、母は秋田万(まん)、祖母は山内一豊(やまうちかずとよ)の妹合(ごう)姫(慈仙(じせん)院)。父良明は1608年(慶長13)国を出て浪人中1618年に死去。兼山は母とともに土佐に帰り、分家の家老野中直継(なおつぐ)の養子となり、直継の娘市(いち)を妻とす。直継は1622年(元和8)奉行(ぶぎょう)職となったが、直継の死後1631年(寛永8)奉行職を命ぜられ強力な藩政を展開した。南学(なんがく)発展のため谷時中(たにじちゅう)を迎え、江戸から朱子学を導入して、山崎闇斎(やまざきあんさい)、小倉三省(おぐらさんせい)とともに研鑽(けんさん)して海南朱子学(南学)を身につけ、実学として政治に取り入れ、封建道徳の実践に努めた。また『朱子語類』『小学』の訳、『室戸港記』『自省録』『兼山遺草』などの著作をなした。火葬を禁じて土葬とし、同姓娶(めと)らずの考えから市は名のみの妻であった。兼山政治最大の功績は用水路を建設して新田を開発したことだが、物部(ものべ)川の山田堰(ぜき)、仁淀(によど)川の八田(はた)堰・鎌田(かまた)堰をはじめ多くの井溝をつくって、香長(かちょう)、吾南(ごなん)、高岡その他の平野を潤した。新田開発には長宗我部(ちょうそがべ)氏遺臣の一領具足(いちりょうぐそく)の子孫を起用して郷士とし、不満を和らげ軍事力強化の一翼を担わせた。そのほか殖産興業、港湾修築に手腕を発揮したが、一面「本山掟(もとやまおきて)」「弘瀬浦(ひろせうら)掟」「国中(くにじゅう)掟」などを発布して領民支配を強化した。また宇和島(うわじま)藩と沖島(おきのしま)(宿毛(すくも)市)・篠山(ささやま)で境界論争を展開したが、争論や開発のため資金を紙、茶、漆などの専売に依存した。領民の夫役(ぶやく)過重と相まって、民衆の間から非難が起こり、孕石頼母(はらみいしたのも)(1628―1701)、深尾出羽(ふかおでわ)ら政敵の弾劾を受け1663年(寛文3)奉行職を罷免され、その新政策はほとんど廃された(寛文(かんぶん)の改替(かいたい))。同年12月15日、領地の香美(かみ)郡山田村の中野(土佐山田町)で急死した。野中家は改易となり遺族は幡多(はた)郡宿毛(すくも)幽閉となる。兼山の墓は潮江(うしおえ)山(高知市)にあるが、娘婉(えん)(1660―1726)の建てたもの。のち五台山に兼山神社が建立される。[山本 大]
『横川末吉著『野中兼山』(1962/新装版・1990・吉川弘文館) ▽平尾道雄著『野中兼山と其の時代』(1970・高知県文教協会)』

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世界大百科事典内の野中兼山の言及

【小倉三省】より

…父政平は近江の人で,山内一豊に仕えて土佐に移る。三省は山内忠義に仕えて仕置役となり,執政野中兼山を助けて国政を執り治績大いに上がる。儒学を僧天室,谷時中に学び,兼山の剛直に対し寛大仁恕の徳化をもって海南朱子学の宗師と推重される。…

【港湾】より

… 近世,徳川幕府の鎖国政策は西洋との交易の窓口を長崎の出島に限定したが,藩米の大坂移送,大坂から諸国への諸物品の移送のため,沿岸の泊,湊の整備が進み,とくに日本海から関門海峡を経て大坂に至る西回りおよび日本海から津軽海峡を経て江戸に至る東回りの航路はよく発達し,沿岸の湊は海の宿場としても繁栄した。なお,この時代,土佐では野中兼山らによって河口の岩盤の入江を掘削して,津呂,手結,室戸の各港が整備されたが,これらは現在の掘込港湾の先駆ともいえるもので,藩の殖産に寄与したばかりでなく,技術史上も価値の高いものであった。 鎖国政策の転換とともに,1859年(安政6)の長崎,神奈川,箱館,67年(慶応3)の兵庫,翌年の新潟などいわゆる5港の開港となり,さらに大阪開市が勅許された。…

【儒葬】より

…日本では近世以降に儒教の排仏思想が強まるにつれて葬祭も仏式でなく儒式に改めるべきだという主張のもとに儒葬が行われ始めたが,当時幕府の宗門改めと寺請制度により実際には仏葬が強制されていたこともあって,儒葬を実行する範囲はごく限られていた。最初に儒葬を行ったのは土佐藩の野中兼山で,1651年(慶安4)に母の秋山氏を土葬にして3年の喪に服した。ついで水戸藩の徳川光圀が彼に仕えた儒学者朱舜水(しゆしゆんすい)の意見を聞き,《文公家礼》を基にして《喪祭儀略》を作成し領内での普及を図ったが,光圀の死後,幕府の宗教統制に反することを恐れて再び仏葬に戻された。…

【宿毛[市]】より

…松田川下流に位置する宿毛の市街地は,近世には土佐藩家老安東氏の居館を中心とした町であった。失脚した野中兼山の一族は宿毛に40年間幽閉され,墓は安東氏の菩提寺東福寺の背後の西山墓地にある。市街地北西の丘陵には縄文時代の人骨も出土した宿毛貝塚(史)があり,東部の平田にはかつて曾我山古墳があり,近くに式内社の高知坐(たかちにます)神社がある。…

【土佐藩】より

…上士のほとんどは,藩祖一豊に従って来国した家系を誇り,高知の郭中に集住した。郷士制度は,農民化していた一領具足(長宗我部氏の下級家臣)の子孫を,新田開発を条件に取り立てたことから起こり,野中兼山の執政時代に登用された初期郷士は1000人に及んだ。上士と下士の差別は根深く,幕末維新の政争にも反映した。…

【本山[町]】より

…戦国期には土佐七雄の一に数えられ,長宗我部氏と覇を競った本山氏の本拠地であり,その城跡は町の南西にそびえる田井山(818m)の尾根先端にある。江戸時代前期には,土佐藩執政として藩政を掌握した野中兼山の知行地で,その屋敷地跡は現在上街(うえまち)公園となり,桜の名所として知られる。野中家累代の墓のある帰全山には兼山の銅像が立つ。…

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