尼崎城下(読み)あまがさきじようか

日本歴史地名大系 「尼崎城下」の解説

尼崎城下
あまがさきじようか

[現在地名]尼崎市北城内きたじようない南城内みなみじようない東本町ひがしほんまち一―四丁目・大物町だいもつちよう一―二丁目・西本町にしほんまち一―八丁目・開明町かいめいちよう一―三丁目・御園町みそのちよう西御園町にしみそのちよう東桜木町ひがしさくらぎちよう西桜木町にしさくらぎちよう汐町しおまち西本町北通にしほんまちきたどおり三―五丁目・寺町てらまち玄番北之町げんばんきたのちよう玄番南之町げんばんみなみのちよう中在家町なかざいけちよう一―四丁目・築地北浜つきじきたはま一―五丁目・築地本町つきじほんまち一―五丁目・築地中通つきじなかどおり一―五丁目・築地南浜つきじみなみはま一―四丁目・築地丸島町つきじまるしまちよう

東の神崎かんざき川と西の庄下しようげ川との間に発達した砂洲上にあった尼崎城の城下町。北側を庄下川と合流・分流する大物川が蛇行し、城下町は城の東西と南側に展開する。東西一六町五五間(「城内・城下間数・家数書上」尼崎市教育委員会所蔵文書)の広がりをもち、魚と木材の集散地、京都と瀬戸内を結ぶ重要な湊町でもあった。

〔拡大と整備〕

元和三年(一六一七)一〇月一四日幕府より戸田氏鉄へ尼崎に新城築造の下命があった(徳川実紀)。城地予定地には尼崎城、大覚だいかく寺・本興ほんこう寺、近くに戦国時代の大物城があった。予定地東側にはすでに町場化していた市庭いちにわ別所べつしよ風呂辻ふろつじ辰巳たつみの四町と、大物川を隔てて市庭町の北側に湊町大物があった。氏鉄は尼崎城と大物城を取除き、大覚寺・本興寺、その他の寺院・町屋を強制移転させ、新城を築造すると同時に城下町の建設を始めた。城郭の内部と周辺に侍屋敷を配し、その外側に寺町・町屋を置いた。前掲の五町を城下東町とし、城の西側では北西部に寺院を集めて寺町を成立させ、その南と西大手橋の筋より北に侍屋敷地を、さらにその南側の砂原みや町と中在家町を建設して旧町から移転させた町人を住まわせて、城下西町とした。これらの区画内には別所村領が多く含まれ、西屋敷(侍屋敷)の南側、宮町・中在家町の西側に別所村の民家が軒を連ねて、竹屋たけや(竹谷)堤を巡るいじ川のうちに囲い込まれ城下町のうちに繰込まれた。城地の南限を海岸までとしたので、大坂から西国に通じる中国街道が城の東西で中断することになり、南に迂回させる必要から、城の南方にあった二つの島をつなげて築地町を建設した。戸田氏の時代に町の地割が済み、建設は青山氏の代に入ってから実施され、寛文五年(一六六五)頃に終わった。同九年城下町西の番所、竹屋御門の外側北西の別所村地内に、城下宮町の飛地出屋敷でやしき(宮町新家)ができた(尼崎市史)。万治二年(一六五九)の上瓦林村宗門改帳(岡本家文書)に「尼崎しほや町」もみえる。

〔松平氏の時代〕

松平氏時代の尼崎城下町図(尼崎市史)によれば、市庭町に大覚寺だいかくじ町、別所町魚の棚うおのたな大工だいく町・南浜・牢屋町ろうやまち筋、風呂辻町に長遠寺ぢようおんじ町、辰巳町なぎさ町・七軒樽屋しちけんたるや町、大物町に兜屋片かぶとやかた町・はたごや丁・紺屋こんや町・管絃かげ町・はなの町・しじみ町、東屋敷・宮町に妙光寺みようこうじ町・日用ひよう(日雇)辻子があり、別所村町並み図(同書)には中在家町にいかりのすじ・大行院之だいぎよういんの辻子がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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