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水野忠邦 みずの ただくに

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美術人名辞典の解説

水野忠邦

江戸後期の老中。幼名は於菟五郎、松軒・蘭園と号する。天保の改革を断行。和歌を村田春海に学ぶ。嘉永4年(1851)歿、58才。

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デジタル大辞泉の解説

みずの‐ただくに〔みづの‐〕【水野忠邦】

[1794~1851]江戸後期の大名。唐津藩主から浜松藩主へ転封。大坂城代京都所司代などを経て老中となる。将軍徳川家慶に信任され、天保の改革を断行したが、反対者が多くて失脚。

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百科事典マイペディアの解説

水野忠邦【みずのただくに】

江戸後期の大名。老中首座。越前守。肥前(ひぜん)唐津藩主水野忠光の子。1812年襲封すると藩政改革を断行,1817年遠江(とおとうみ)浜松に移封と同時に寺社奉行となる。
→関連項目阿部正弘佐藤信淵遠山金四郎徳川家慶鳥居耀蔵羽倉外記浜松藩

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

水野忠邦 みずの-ただくに

1794-1851 江戸時代後期の大名。
寛政6年6月23日生まれ。水野忠光(ただあきら)の次男。文化9年肥前唐津(からつ)藩(佐賀県)藩主水野家4代。14年遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松にうつる。京都所司代,西丸老中をへて天保(てんぽう)10年(1839)老中首座につき,12年から天保の改革を断行。きびしい奢侈取り締まりや年貢増などへの反発をうけて2年余で失敗して老中職を罷免され,翌年復職したがまもなく辞任。弘化(こうか)2年在任中の不正を理由に減封,謹慎となった。官職名は越前守(えちぜんのかみ)。嘉永(かえい)4年2月10日死去。58歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

水野忠邦

没年:嘉永4.2.10(1851.3.12)
生年:寛政6.6.23(1794.7.19)
江戸後期,天保の改革を断行した老中。忠光の次男,母は側室中川恂。幼名は於菟五郎。式部少輔,和泉守,左近将監,越前守。文化9(1812)年唐津藩主。12年奏者番,14年寺社奉行兼任となり,同時に経済的には不利益な浜松へ所替えとなった。これは幕府重職就任を熱望した忠邦が,唐津藩は長崎警備の任務があり老中になれないため,幕府の実力者水野忠成 に猛烈な運動をして実現した。その後も忠成の庇護で,大坂城代,京都所司代と順調に昇進し,文政11(1828)年西丸老中,天保5(1834)年本丸老中,10年に老中首座に登り詰めた。この間,藩財政は極度に窮乏し,代金未払いのため江戸藩邸の用達商人から出入りを断られたほどであった。そのため,大坂で不正無尽を企てたり,金座御金改め役後藤三右衛門から多額の賄賂を受け取るなど,忠成のあとを継ぐ金権腐敗の政治家とみられ,世評は芳しくなかった。 幕政の実権を握っていた大御所徳川家斉の信任厚い御側御用取次水野忠篤らの側近を,12年家斉が亡くなるや,迅速果断に一掃し,将軍徳川家慶の厚い信任を受け天保の改革を断行した。内憂外患の深刻な危機の打開をめざし,奢侈一掃と質素倹約を強調,特に都市に厳しい統制を実施,株仲間解散,人返し,異国船打ち払い令を撤回した薪水給与令,上知令,印旛沼工事,御料所改革,貨幣改革,日光社参などを断行。あまりに急激な改革で,大名,旗本から農民,町人まであらゆる階層の利害と衝突し,14年閏9月罷免された。異例にも翌年6月老中に再任されたが,他の老中の強い抵抗と将軍の信任を得られず,木偶のようだと評されつつ,弘化2(1845)年再辞職。在職中に賄賂を受け取ったことなどを咎められ,2万石没収,隠居謹慎。子の忠精も出羽山形への所替えの処罰を受け,下屋敷で謹慎の生活を送る。厳格な改革政治家と金権腐敗の政治家の両方の顔を持つ老中であった。<参考文献>北島正元『水野忠邦

(藤田覚)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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江戸・東京人物辞典の解説

水野忠邦

1794〜1851(寛政6〜嘉永4)【老中】出世に奔走して、老中首座に。天保の改革で挫折。 唐津・浜松藩主。幕閣への出世を求め、唐津から石高が低い浜松へあえて転封した。自ら「青雲の要所」と称した大坂城代への昇進を足がかりに、1839年に老中に上りつめた。天保の改革では、政策と現実の乖離が大きく、規制・統制を厳しくしたため、多くの階層から反発を受けて失脚した。のち老中に復帰するが、在職中の賄賂問題で隠居・蟄居となり、失意のうちに没した。

出典|財団法人まちみらい千代田
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世界大百科事典 第2版の解説

みずのただくに【水野忠邦】

1794‐1851(寛政6‐嘉永4)
江戸後期の大名。天保改革の指導者。肥前の唐津藩主水野忠光の庶子として生まれた。1812年(文化9)唐津6万石を襲封すると,すぐに藩政改革の断行を宣言し,藩主親裁の姿勢をとった。15年奏者番に任命され,幕閣への登竜門に立った忠邦は,17年減収をおそれた家臣の猛反対を退けて唐津から遠州浜松へ転封し,同時に寺社奉行を兼ねた。それより大坂城代,所司代を歴任し,28年(文政11)西丸老中,34年(天保5)水野忠成のあとをおそって本丸老中に昇進,次いで勝手掛老中を経て39年老中首座に進み,幕政の最高責任者となった。

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大辞林 第三版の解説

みずのただくに【水野忠邦】

1794~1851) 江戸後期の老中。唐津藩主から浜松藩主に転じ、寺社奉行・大坂城代・京都所司代などを歴任。1834年老中となり、天保の改革を断行したが、失敗して退いた。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

水野忠邦
みずのただくに

[生]寛政6(1794).6.23. 江戸
[没]嘉永4(1851).2.10. 江戸
江戸時代後期の幕府老中。天保の改革の主導者。唐津藩主水野忠光の次子。母は側室恂 (じゅん) 。幼名,於菟五郎。松軒または菊園と号した。文化9 (1812) 年8月 19歳で襲封。奏者番,寺社奉行を兼ねて幕政に参与。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

水野忠邦
みずのただくに
(1794―1851)

天保(てんぽう)の改革を主導した老中で浜松藩主。唐津(からつ)藩主水野忠光と側室恂(じゅん)との間に、江戸同藩上屋敷にて生まれる。幼名を於菟五郎(おとごろう)と称した。1805年(文化2)、忠邦と称し、幕府より正式に忠光の世子として許可され、07年初の将軍御目見(おめみえ)。12年、19歳にして和泉守(いずみのかみ)を称し、表高6万石(内高25万石)の唐津藩第11代藩主となる。22歳にして奏者番(そうじゃばん)を拝命し、17年には、財政的な不利も顧みず、譜代(ふだい)大名の昇進に有利な浜松藩6万石への転封を実現させた。この年、寺社奉行(ぶぎょう)を兼務し、以後は25年(文政8)大坂城代、翌年京都所司代(しょしだい)に就任して、越前守(えちぜんのかみ)を名のった。28年、35歳で家慶(いえよし)付の西ノ丸老中に昇進し、34年(天保5)ついに本丸老中に就任した。
 天保(てんぽう)年間(1830~44)の中ごろには、三河加茂一揆(かもいっき)、郡内(ぐんない)騒動、佐渡一国騒動、そして大塩の乱という兵乱の危機にまで高まった「内憂」と、欧米列強の「外患」に対処せざるをえなくなっていた。1837年第12代将軍に家慶がつき、39年忠邦は老中首座となり、1万石加増となって、幕閣の頂点を極めた。翌年にはアヘン戦争の結果も伝えられ、41年隠然たる力をもち続けていた大御所家斉(いえなり)の死を契機に、家斉派の粛清と改革派の結集が図られた。同年5月15日、天保の改革の上意が発せられた。忠邦は、書道、絵、雅楽、和歌、古典研究などに通じていたが、平素はつねに綿(めん)服を着用するというように質素倹約に彼自身が努め、儒教的禁欲主義の理念をもって、士風の振興から庶民の生活・風俗統制まで強圧的に行っていった。さらに、株仲間の解散、幕領検地、上知(あげち)令など幕藩制の屋台骨にかかわる政策を断行しようとした。
 しかし、忠邦は、江戸庶民から「人面獣心、古今の悪玉」とまでいわれ、政策には幕閣内部からも反発が出て、挫折(ざせつ)に追い込まれていった。1843年閏(うるう)9月の上知令撤回を機に、同月13日老中罷免となった。この日、忠邦の役宅は、江戸市民数千人による投石にみまわれたのである。44年(弘化1)老中復職、しかし8か月にして、持病悪化を理由に再辞職。翌年9月、役務中の不正を理由に、加増地1万石と本高のうち1万石および居屋敷・家作ともに没収、嫡子金五郎(忠精(ただきよ))が11月に出羽(でわ)山形5万石へ転封と発令された。翌年の転封には、浜松で打毀(うちこわし)が起き、転封完了には領民が祝うことすらあったという。44年にはすでに農兵隊の組織化などが行われた、忠邦による浜松藩の軍事改革も領民の不満を蓄積させていたのであった。忠邦は山形には同行できず、49年(嘉永2)、病状悪化を理由に、荏原(えばら)郡中渋谷(なかしぶや)村の下屋敷から三田(みた)への転居を認められ、嘉永(かえい)4年2月10日病死した。数え年58歳。下総(しもうさ)山川(茨城県結城(ゆうき)市)万松(ばんしょう)寺に葬られる。[浅見 隆]
『北島正元著『水野忠邦』(1969・吉川弘文館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の水野忠邦の言及

【印旛沼】より

…工事の早期完成と技術的困難さを大量の労働力の投下でカバーしようとしたため,工事を分担した5藩は巨額にのぼる工事費にあえいだ。大名側からの不満,幕府内の意見対立もあり,閏9月の老中水野忠邦の罷免とともに工事を幕府の直営に移し,翌年6月には工事を中止している。第3回目の工事のおもな目的は,老中水野が,掘割の川幅をめぐって町奉行兼勘定奉行鳥居忠耀と対立したさい,利根川を航行した全長27m,幅5mにおよぶ高瀬船を通行させるために河床の幅を10間(18m)とすることを主張していることから,水運にあったと考えられる。…

【天保改革】より

…この事態に対して,水戸藩主徳川斉昭(なりあき)ら領主階級の一部は幕藩体制の危機ととらえていたが,幕府では将軍家斉(いえなり)が引退したものの大御所として隠然たる勢力をもち,大奥を中心に豪奢な生活を送り,改革を嫌い,太平の世の政治を続けていた。41年家斉が没すると,老中首座の水野忠邦は将軍家慶(いえよし)を擁して家斉側近派を追放し,幕政の改革を開始した。忠邦は,家斉時代の放漫と奢侈(しやし)を改め,享保と寛政の時代に復帰することを目標におき,綱紀粛正,倹約励行,風俗匡正に力を注いだ。…

【土井利位】より

…三河刈谷藩主土井氏から養子として入り,就封後,幕府の要職である寺社奉行,大坂城代,所司代を歴任し,1838年(天保9)老中に就任。はじめは水野忠邦を助けて天保改革をすすめたが,のちに上知令(あげちれい)に反対して忠邦の失脚後は代わって老中首座となり,44年(弘化1)まで在職した。家老の鷹見泉石の影響で蘭学に親しみ,顕微鏡で雪の結晶を観察して《雪華図説》を著した。…

【浜松藩】より

…38年に転封したが,この間に城下町の本格的な町割りが行われ,領内検地や新田開発も進んだ。以後松平(大給)氏,太田氏,青山氏,松平(本庄)氏,松平(大河内)氏,松平(本庄)氏,井上氏と転封が激しく,1817年(文化14)には水野忠邦が肥前唐津より6万石で入封した。この間,藩制や城下町の整備,近世村落の確立の上で大きな影響を与えたのは,17世紀後半の太田・青山両氏の時代であった。…

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