天保(てんぽう)の改革を主導した老中で浜松藩主。唐津(からつ)藩主水野忠光と側室恂(じゅん)との間に、江戸同藩上屋敷にて生まれる。幼名を於菟五郎(おとごろう)と称した。1805年(文化2)、忠邦と称し、幕府より正式に忠光の世子として許可され、07年初の将軍御目見(おめみえ)。12年、19歳にして和泉守(いずみのかみ)を称し、表高6万石(内高25万石)の唐津藩第11代藩主となる。22歳にして奏者番(そうじゃばん)を拝命し、17年には、財政的な不利も顧みず、譜代(ふだい)大名の昇進に有利な浜松藩6万石への転封を実現させた。この年、寺社奉行(ぶぎょう)を兼務し、以後は25年(文政8)大坂城代、翌年京都所司代(しょしだい)に就任して、越前守(えちぜんのかみ)を名のった。28年、35歳で家慶(いえよし)付の西ノ丸老中に昇進し、34年(天保5)ついに本丸老中に就任した。
天保(てんぽう)年間(1830~44)の中ごろには、三河加茂一揆(かもいっき)、郡内(ぐんない)騒動、佐渡一国騒動、そして大塩の乱という兵乱の危機にまで高まった「内憂」と、欧米列強の「外患」に対処せざるをえなくなっていた。1837年第12代将軍に家慶がつき、39年忠邦は老中首座となり、1万石加増となって、幕閣の頂点を極めた。翌年にはアヘン戦争の結果も伝えられ、41年隠然たる力をもち続けていた大御所家斉(いえなり)の死を契機に、家斉派の粛清と改革派の結集が図られた。同年5月15日、天保の改革の上意が発せられた。忠邦は、書道、絵、雅楽、和歌、古典研究などに通じていたが、平素はつねに綿(めん)服を着用するというように質素倹約に彼自身が努め、儒教的禁欲主義の理念をもって、士風の振興から庶民の生活・風俗統制まで強圧的に行っていった。さらに、株仲間の解散、幕領検地、上知(あげち)令など幕藩制の屋台骨にかかわる政策を断行しようとした。
しかし、忠邦は、江戸庶民から「人面獣心、古今の悪玉」とまでいわれ、政策には幕閣内部からも反発が出て、挫折(ざせつ)に追い込まれていった。1843年閏(うるう)9月の上知令撤回を機に、同月13日老中罷免となった。この日、忠邦の役宅は、江戸市民数千人による投石にみまわれたのである。44年(弘化1)老中復職、しかし8か月にして、持病悪化を理由に再辞職。翌年9月、役務中の不正を理由に、加増地1万石と本高のうち1万石および居屋敷・家作ともに没収、嫡子金五郎(忠精(ただきよ))が11月に出羽(でわ)山形5万石へ転封と発令された。翌年の転封には、浜松で打毀(うちこわし)が起き、転封完了には領民が祝うことすらあったという。44年にはすでに農兵隊の組織化などが行われた、忠邦による浜松藩の軍事改革も領民の不満を蓄積させていたのであった。忠邦は山形には同行できず、49年(嘉永2)、病状悪化を理由に、荏原(えばら)郡中渋谷(なかしぶや)村の下屋敷から三田(みた)への転居を認められ、嘉永(かえい)4年2月10日病死した。数え年58歳。下総(しもうさ)山川(茨城県結城(ゆうき)市)万松(ばんしょう)寺に葬られる。
[浅見 隆]
『北島正元著『水野忠邦』(1969・吉川弘文館)』
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(藤田覚)
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江戸後期の大名。天保改革の指導者。肥前の唐津藩主水野忠光の庶子として生まれた。1812年(文化9)唐津6万石を襲封すると,すぐに藩政改革の断行を宣言し,藩主親裁の姿勢をとった。15年奏者番に任命され,幕閣への登竜門に立った忠邦は,17年減収をおそれた家臣の猛反対を退けて唐津から遠州浜松へ転封し,同時に寺社奉行を兼ねた。それより大坂城代,所司代を歴任し,28年(文政11)西丸老中,34年(天保5)水野忠成のあとをおそって本丸老中に昇進,次いで勝手掛老中を経て39年老中首座に進み,幕政の最高責任者となった。
忠邦の栄達は,その才幹を愛した水野忠成や将軍家斉らの推挙によったため,その在世中は改革に手を下すことができなかったが,家斉が41年閏正月に死んだ直後から改革派を結集し,将軍家慶の名をもって幕政改革に着手した。改革は多方面にわたり空前のきびしさで進行したが,その中でとくに株仲間解散令と上知令(あげちれい)が改革の新しい側面を代表している。前者は新しい産業統制,後者は領主的土地所有の再編,強化を意図した政策であり,ともに幕府を絶対主義に傾斜させる客観的意義を担っていた。しかし反対勢力の攻撃により,忠邦は幕閣を追われ,改革はわずか2年余で終結した。忠邦はその後,ふたたび老中首座に返り咲いたが,まもなく辞職し,天保改革の政治責任を問われて減封,羽州山形への転封などの処罰を受けた。
執筆者:北島 正元
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1794.6.23~1851.2.10
江戸後期の老中。肥前国唐津・遠江国浜松藩主。越前守。父は唐津藩主水野忠光。1812年(文化9)家督相続。倹約令を発し,二本松義廉を登用して財政改革を企画。奏者番・寺社奉行兼帯。浜松へ転封後,殖産興業・軍制改革を骨子とした藩政改革を断行。大坂城代・京都所司代をへて,28年(文政11)西丸老中,34年(天保5)本丸老中。のち1万石加増。39年老中首座。大御所家斉没後,41年から天保の改革を主導。鳥居耀蔵を町奉行に登用し強圧的な政治を行ったため反発をうけ,43年上知令撤回後,失脚時に江戸屋敷に投石する者が押し寄せた。44年(弘化元)老中再任。翌年辞職。鳥居らの不正が発覚し2万石減封,隠居・蟄居となる。
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…工事の早期完成と技術的困難さを大量の労働力の投下でカバーしようとしたため,工事を分担した5藩は巨額にのぼる工事費にあえいだ。大名側からの不満,幕府内の意見対立もあり,閏9月の老中水野忠邦の罷免とともに工事を幕府の直営に移し,翌年6月には工事を中止している。第3回目の工事のおもな目的は,老中水野が,掘割の川幅をめぐって町奉行兼勘定奉行鳥居忠耀と対立したさい,利根川を航行した全長27m,幅5mにおよぶ高瀬船を通行させるために河床の幅を10間(18m)とすることを主張していることから,水運にあったと考えられる。…
…この事態に対して,水戸藩主徳川斉昭(なりあき)ら領主階級の一部は幕藩体制の危機ととらえていたが,幕府では将軍家斉(いえなり)が引退したものの大御所として隠然たる勢力をもち,大奥を中心に豪奢な生活を送り,改革を嫌い,太平の世の政治を続けていた。41年家斉が没すると,老中首座の水野忠邦は将軍家慶(いえよし)を擁して家斉側近派を追放し,幕政の改革を開始した。忠邦は,家斉時代の放漫と奢侈(しやし)を改め,享保と寛政の時代に復帰することを目標におき,綱紀粛正,倹約励行,風俗匡正に力を注いだ。…
…三河刈谷藩主土井氏から養子として入り,就封後,幕府の要職である寺社奉行,大坂城代,所司代を歴任し,1838年(天保9)老中に就任。はじめは水野忠邦を助けて天保改革をすすめたが,のちに上知令(あげちれい)に反対して忠邦の失脚後は代わって老中首座となり,44年(弘化1)まで在職した。家老の鷹見泉石の影響で蘭学に親しみ,顕微鏡で雪の結晶を観察して《雪華図説》を著した。…
…38年に転封したが,この間に城下町の本格的な町割りが行われ,領内検地や新田開発も進んだ。以後松平(大給)氏,太田氏,青山氏,松平(本庄)氏,松平(大河内)氏,松平(本庄)氏,井上氏と転封が激しく,1817年(文化14)には水野忠邦が肥前唐津より6万石で入封した。この間,藩制や城下町の整備,近世村落の確立の上で大きな影響を与えたのは,17世紀後半の太田・青山両氏の時代であった。…
※「水野忠邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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