瀬口村(読み)せぐちむら

日本歴史地名大系 「瀬口村」の解説

瀬口村
せぐちむら

[現在地名]庄内町東大津留ひがしおおつる 瀬口・上瀬口かみせぐち下瀬口しもせぐち

大分川左岸の支流小挟間おばさま川右岸に位置し、畑田はたけだ村の北にある。江戸時代を通じて府内藩領で、奥郷橋爪組に属した(府内藩記録)。慶長一三年(一六〇八)の瀬口・大津留分検地帳(曾根崎家文書)によると村位は下、二村合計で上田二町九反余・中田四町余・下田四町九反余、屋敷四反余、上畑一町三反余・中畑二町五反余・下畑二町余、高一七五石余、うち当村分八七石余、名請人一九名、うち屋敷所有者一二名。大津留おおつる村は当村の枝郷であったと思われる。正保郷帳では田高一二七石余・畑高四九石余、阿南あなん庄に所属。


瀬口村
せぐちむら

[現在地名]朝地町池田いけだ 瀬口

村の北、市万田いちまんだ川北岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高八五石余・畑高六六石余、一万田いちまんだ郷に属し、柴山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一九八石余。安永七年(一七七八)には市万田組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。寛政一二年(一八〇〇)疫病流行のとき当村の医者元亀は銀札八二〇目を寄付、また服薬を調合して病人を救った。


瀬口村
せぐちむら

[現在地名]竹田市飛田川ひだがわ

稲葉いなば川中流にある。正保郷帳では飛田郷に属し、田方一三八石余・畑方一三二石余。弘化物成帳では飛田組のうち、村位は中、免八ツ八分、田二三七石余(二一町九反余)・畑七五石余(一二町七反余)・屋敷八石余(八反余)で、開田五斗余(二反余)・開畑二石余(三町三反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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