朝日日本歴史人物事典 「瀬田掃部」の解説
瀬田掃部
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。利休七哲のひとり。名は正忠,のち伊繁。初め小田原北条氏,のち豊臣秀吉に仕えて近江の地を与えられた。天正12(1584)年ごろから茶会に名がみえる。13年従五位下掃部頭に叙任。15年九州の役に従軍。18年の小田原の役には相模玉縄城を攻め落とし入城,古田織部らと共にこれを守備した。同19年,後陽成天皇の聚楽第行幸には秀吉の前駆を務めた。文禄4(1595)年豊臣秀次の自刃事件に連座して刑死。櫂先の大振りな掃部作の茶杓はのちに「掃部形」と呼ばれるようになった。<参考文献>村井康彦『利休七哲宗旦四天王』
(谷端昭夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報