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瀬田掃部 せた かもん

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美術人名辞典の解説

瀬田掃部

桃山時代の武士・茶人。名は正忠、伊繁。はじめ小田原北条氏に、のち豊臣秀吉に仕え、近江国瀬田を本貫地とした。千利休茶の湯を学び、利休七哲の一人に数えられる。大ぶりの平高麗茶碗や掃部形と呼ばれる茶杓を愛用したことが知られている。文禄4年(1595)歿、48才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

瀬田掃部 せた-かもん

1548-1595 織豊時代の武士,茶人。
天文(てんぶん)17年生まれ。豊臣秀吉につかえ,近江(おうみ)(滋賀県)に領地をあたえられた。茶の湯は千利休の高弟で,利休七哲のひとり。おおきな平高麗茶碗と掃部形とよばれる大形の茶杓をもちいた。豊臣秀次事件に連座し,文禄(ぶんろく)4年7月5日刑死。48歳。名は正忠,伊繁(これしげ)。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

瀬田掃部

没年:文禄4.12.12(1596.1.11)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。利休七哲のひとり。名は正忠,のち伊繁。初め小田原北条氏,のち豊臣秀吉に仕えて近江の地を与えられた。天正12(1584)年ごろから茶会に名がみえる。13年従五位下掃部頭に叙任。15年九州の役に従軍。18年の小田原の役には相模玉縄城を攻め落とし入城,古田織部らと共にこれを守備した。同19年,後陽成天皇聚楽第行幸には秀吉の前駆を務めた。文禄4(1595)年豊臣秀次の自刃事件に連座して刑死。櫂先の大振りな掃部作の茶杓はのちに「掃部形」と呼ばれるようになった。<参考文献>村井康彦『利休七哲宗旦四天王

(谷端昭夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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