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千利休 せんの りきゅう

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

千利休

1522~91年。堺の町衆の家に生まれる。茶器や道具に工夫を凝らし、極限まで無駄を省くわび茶の完成に努めた。豊臣秀吉に茶頭として仕え、茶人としての地位を確立したが、その後、秀吉に切腹を命じられ、自刃した。

(2017-01-30 朝日新聞 朝刊 大阪市内・1地方)

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デジタル大辞泉の解説

せん‐の‐りきゅう〔‐リキウ〕【千利休】

[1522~1591]安土桃山時代の茶人。の人。名は与四郎。宗易(そうえき)と号す。侘茶(わびちゃ)の大成者で、千家流開祖茶の湯武野紹鴎(たけのじょうおう)に学ぶ。草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、また楽茶碗の制作・指導などをした。織田信長豊臣秀吉に仕えたが、のち秀吉の命により自刃。

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百科事典マイペディアの解説

千利休【せんのりきゅう】

安土桃山時代の茶人。茶道(ちゃどう)の大成者。家流(三千家)の開祖。堺の生れ。通称与四郎,宗易と号す。晩年は不審庵とも号した。初め茶の湯を北向道陳に学び,のちに武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事。
→関連項目安土桃山時代今井宗久裏千家流織田有楽斎表千家流神屋宗湛信楽焼聚光院千家流千少庵千宗室千宗旦千道安草庵茶室長次郎辻与次郎津田宗及南方録日本料理野点備前焼古田織部妙喜庵名物藪内流山上宗二露地佗茶

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

千利休 せんの-りきゅう

1522-1591 戦国-織豊時代の茶人。
大永(たいえい)2年生まれ。堺(さかい)の商人。茶を武野紹鴎(たけの-じょうおう)にまなび,織田信長,豊臣秀吉の茶頭(さどう)となる。「天下一の茶湯者」として秀吉の側近政治にふかくかかわり,侘(わび)茶を大成した。天正(てんしょう)19年2月28日,秀吉の命で切腹。70歳。墓所は京都の大徳寺聚光(じゅこう)院。本姓は田中。幼名は与四郎。法名は宗易(そうえき)。別号に抛筌斎(ほうせんさい)。
【格言など】家は洩らぬ程,食事は飢えぬ程にて,足る事なり(「南方録」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

千利休

没年:天正19.2.28(1591.4.21)
生年:大永2(1522)
桃山時代の茶人。幼名与四郎。号は宗易。利休居士号は天正13(1585)年に正親町天皇より下賜されたとされる。抛筌斎とも号した。もとの姓は田中で,堺の魚問屋田中与兵衛の子として生まれた。生年については大永1(1521)年の説もある。10歳代で武野紹鴎に茶の湯を学び,23歳で茶会を開いた記録が残り,青年時代から先達にまじって茶人としての才能をあらわした。永禄11(1568)年,織田信長が上洛し,茶の湯に対して異常なほどの興味を示して名物狩りをくりかえしたころ,信長の茶頭として津田宗及,今井宗久と共にとりたてられ,天下一の茶頭の地位を築いた。すでにその時代から茶の湯に執着していた豊臣秀吉との交渉もあり,天正10年,信長が本能寺の変で没して秀吉の天下となるや,ひきつづき秀吉の茶頭としての地位を保った。秀吉は信長にならって茶の湯を政治的に利用したがその演出者として常に利休がいた。天正13年,秀吉が正親町天皇に関白就任御礼の禁中献茶をおこなった際も親王以下には利休が茶をたてている。同15年には秀吉は西日本統一の戦果を誇るべく北野社境内において茶席数800という空前絶後の大茶会(北野大茶湯)を開くが,この演出も利休の手になるものであった。その他黄金の茶室の設計など,政治性をおびた茶の湯を支え,さらに秀吉の懐刀として政治的にも弟の羽柴秀長と共に活躍した。 当然のことながら利休が政治的に秀吉政権に深くかかわった結果,天下の名物をわが物のように自由に用いることができ,茶の湯の黄金時代を築くことになったが,しかしその一方では政権内外での利休に対する反発も強まった。天正15年以降,堺の商業上の地位が博多に比して相対的に下がり,天下統一後をめざして戦国的な風潮や文化に対して厳しい政策へと転換してゆく秀吉政権のなかで,堺をバックとし,既成の美の権威を認めない利休の立場は次第に孤立していった。天正18年,秀吉の小田原攻略に従軍した利休は,韮山の竹で一重切花入「園城寺」(東京国立博物館蔵)などの名作をつくるなど,旺盛な創作意欲をみせた。しかし秀吉によって追放されて小田原にあった山上宗二の最期を見届ける悲劇にもあっている。天正19年正月になって,約1年前に利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し,その責任をとって同年2月28日切腹を命じられた。しかしその切腹の真の理由については利休の娘に秀吉が横恋慕したからであるとか諸説あって明らかでない。利休は村田珠光以来の侘び茶を大成し,茶会の形式,点前作法,茶道具,茶室露地,懐石のあらゆる面に独創的な工夫をこらし,今日の茶の湯の典型を示したとされる。ことに道具の面では室町時代の名物観を否定し,新しい高麗茶碗や瀬戸茶碗をとりあげ,さらに楽長次郎に命じて「宗易型」といわれる楽茶碗を創作するなど独創性をみせた。また茶室ににじり口を設け,2畳という極小の茶室をつくるなど,非日常性の強い緊張感をともなう茶の湯空間を創造している。こうした下剋上的な美意識は天下人秀吉の感性と必ずしも一致せず,それが切腹の一要件になった可能性はあろう。利休切腹後,後妻宗恩の連れ子千少庵とその子宗旦に千家の再興が許され,今日の千家に利休の茶の湯が継承されている。<参考文献>芳賀幸四郎『千利休』,村井康彦『千利休』,熊倉功夫『千利休』,米原正義『天下一名人千利休』

(熊倉功夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

せんのりきゅう【千利休】

1522‐91(大永2‐天正19)
桃山時代の町衆茶人,茶道の大成者。通称与四郎。法諱宗易。抛筌斎と号し,利休は居士号。堺今市に魚問屋を営む千与兵衛の子として生まれた。千という姓は祖父の田中千阿弥に由来すると伝えられる。利休は若くして,当時の堺町衆に流行していた茶の湯に親しみ,武野紹鷗について茶を学んだ。また堺南宗寺に住した大林宗套に参禅し法諱を与えられるなど,禅の影響を強く受けた。確かな記録にみえる最初の利休の茶会は,1544年(天文13)に奈良の塗師松屋久政を招いた茶会で,当時23歳であった。

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大辞林 第三版の解説

せんのりきゅう【千利休】

1522~1591) 安土桃山時代の茶人。千家流茶道の開祖。和泉国堺の人。法名は宗易。村田珠光相伝の侘茶わびちやを武野紹鷗じようおうに学ぶ。茶器および諸道具に工夫をこらし、簡素・清浄な茶道を大成。織田信長・豊臣秀吉に仕えて御茶頭おさどうとなり、天下一の宗匠と評される。政治にも参画するに至ったが、秀吉の怒りを買い自刃を命じられた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

千利休
せんのりきゅう

[生]大永2(1522).堺
[没]天正19(1591).2.28. 京都
安土桃山時代の茶道の完成者,千家流茶道の開祖。商家の出身。幼名は与四郎。家業は納屋衆,一説には魚問屋ともいう。茶の湯を堺,京都で北向道陳,武野紹鴎 (たけのじょうおう) に学び,16歳のとき京都で茶会を開き茶の湯の世界に登場。のち大徳寺で参禅,宗易の号で茶会を開催,やがて織田信長の御茶頭 (おさどう) となり,次いで豊臣秀吉に重用された。天正 13 (1585) 年秀吉の関白就任にあたり茶会が禁中小御所で開かれたとき,正親町 (おおぎまち) 天皇に茶を献じて利休居士の号を贈られ,同 15年秀吉とともに北野大茶会を開くなど天下一の茶匠となった。村田珠光に始まり紹鴎によって引き継がれた佗茶 (わびちゃ) を完成し,待庵をはじめとする草庵風の茶室様式を築いた。また朝鮮茶碗を使用したり,長次郎の楽焼茶碗の制作指導にあたった。織田有楽斎,細川忠興など数多くの弟子を育てて茶道の発展に尽くしたが,同 18年に秀吉の怒りを受け翌 19年に切腹。利休に関する著書は数多く,南坊宗啓がまとめた『南方録』はその代表。利休の茶の流れは3世宗旦から分かれた表千家,裏千家武者小路千家の三千家として今日にいたっている。

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世界大百科事典内の千利休の言及

【北野大茶湯】より

…この年の8月より洛中,奈良,堺などに高札を立てて沙汰を出し,都鄙貴賤貧富の別なく,数寄者であればだれでも,手持ちの道具を持参し参加せよ,茶のない者は〈こがし〉でもよい,と呼びかけた。博多の茶人神谷宗湛にも秀吉から参上を命じ,大名・近習へは千利休と前田玄以が触れたという。それに応じ,800余名が集まったと伝えられる。…

【古渓宗陳】より

…権勢を恐れず,石田三成と衝突し,しばらく博多に流されたこともある。茶の湯をよくたしなみ,千利休の参禅の師であり,〈利休〉の居士号はもともと宗陳が選んだものという。利休切腹に際し,秀吉は利休の木像を山門に置いた大徳寺をとがめ,伽藍の破却を企てたが,そのとき宗陳は使者らの前で短刀を抜いて命を賭してこれをはばみ,大徳寺の危機を救ったという。…

【スイカ(西瓜)】より

…スイカは,普通そのままか,少量の塩をつけて食べる。砂糖や甘味のシロップをかけることもあるが,千利休が飛喜(ひき)百翁という人に招かれたさい,砂糖をかけたスイカを供され,〈百翁は人に饗応することをわきまへず〉と門人に語ったという話が,《雲萍雑志(うんぴようざつし)》(1843)に見える。スイカの果汁はジュースやシャーベットに用いられるが,利尿の効があるといい,果汁を濃縮した〈西瓜糖〉は腎臓病の薬とされる。…

【大徳寺】より

…【藤井 学】
[伽藍と文化財]
 寺地東辺の大宮通りに東面する総門を入ると,南から北に勅使門,山門(三門),仏殿(本堂),法堂(はつとう),寝堂が一直線上にならび,妙心寺とともに近世禅宗寺院の代表的伽藍配置をもつ。山門(重要文化財)は純粋の禅宗様山門としては最古のもので,下層は連歌師宗長の寄進(1529),上層は千利休の寄進(1582)になり,利休が自分の木像をこの楼上に安置したため,豊臣秀吉の怒りにふれて自決に追いこまれる一因となった。唐門(国宝)は前後に軒唐破風をつけた四脚門で,聚楽第遺構と伝えられ,彫刻装飾には桃山風の豪華な意匠がみられる。…

【茶室】より

…茶の湯(茶会)を催すための施設で,茶室という建物と露地(ろじ)と呼ぶ庭から成り立っている。したがって露地をも含めて茶室と称することもある。露地には腰掛,雪隠,中門等の建築物があり,それらを含めて茶室建築と呼ばれることもある。〈茶室〉の呼称は近代になって普及した。室町時代には〈茶湯座敷〉〈数寄(すき)座敷〉〈茶屋〉などの語が見られたが,単に〈座敷〉と呼ばれることが多かった。また茶会記には座敷の広さだけが記されることもあった。…

【茶道】より

…これらの要素が総合的に表現されるのは茶会という一種の宴会,すなわち寄合の場で,その意味では茶道は最も洗練された宴会の一様式ということもできよう。茶道の様式は16世紀に〈わび(侘)茶〉として千利休により完成された。 従来,茶道を日本的な総合芸術ととらえたり,あるいは禅の思想に立脚する儀礼と考えるなど,さまざまな見方があったが,西欧的な芸術の概念では茶道を十分に把握することはむずかしい。…

※「千利休」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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