フランス演劇(読み)ふらんすえんげき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス演劇」の意味・わかりやすい解説

フランス演劇
ふらんすえんげき

その起源は他のヨーロッパ諸国と同じく、中世キリスト教の教会の儀式(典礼)であるが、中世から現代までのフランス演劇を概観して際だつ特徴は、演劇全盛の17世紀に確立された「ことばの演劇」「詩的演劇」であり、文学戯曲重視の傾向である。アリストテレス以来、演劇芸術は文学の特殊な形式と考えられがちであったうえに、とくにフランスでは近年まで、演出や上演など舞台術は軽視される傾向が強かった。しかし20世紀末には国際交流が盛んになり、台本のエクリチュール(文体、表現)と舞台のそれを融合する動きが活発になった。

[伊藤 洋 2018年7月20日]

中世―宗教劇と世俗劇

宗教劇は9世紀ごろ復活祭などの典礼に、僧侶(そうりょ)がラテン語で聖書の重要部分を交互に唱(うた)う対話体の交誦(トロープス)を取り入れたことから始まる。この教会内の典礼劇がやがて戸外で演じられ、台詞(せりふ)もフランス語へ、演者も一般信者へとかわって、12世紀末の準典礼劇『アダンの劇』(作者不詳)などに進化した。吟遊詩人ジャン・ボデルJean Bodel(1165ころ―1210ころ)作『聖ニコラ劇』(1200ころ)は風俗描写も含み、りっぱな演劇に成長している。14世紀末から16世紀中葉まで大スペクタクルとして発展した聖史劇(ミステール)mystèreには、キリスト受難劇や聖母信仰に基づく聖母奇跡劇があった。これらの受難劇上演組合が各地にでき、1402年にはパリに最初の常設劇場も生まれた。上演は原則として女優なしで、地獄や天国など必要な舞台装置を横に並べた並列舞台を使った。受難劇(パシオン)Passionは一般に長大で、その代表作アルヌール・グレバンArnoul Gréban(1420ころ―1470ころ)の『受難聖史劇』(1450ころ)は上演に4日を要した。聖史劇はやがてその宗教性を失い、世俗的になりすぎ、1548年パリ高等法院から上演を禁止された。

 一方、聖史劇上演の合間には同じ舞台でファルスfarce(笑劇)、ソチsotie(阿呆(あほう)劇)、道徳劇(モラリテ)moralité(教訓劇)などの世俗劇が演じられていた。世俗劇は正規の説教のパロディーである滑稽(こっけい)説教、旅芸人の大道芸、土俗祭礼などから生まれた。13世紀にはアダン・ド・ラ・アールの牧歌劇『ロバンとマリオン』(1283ころ)などが現れる。注目すべきはのちに影響を与えるファルスで、15世紀にその傑作『パトラン先生』(作者不詳、1464~1469ころ)が生まれた。世俗劇の演者は学生や町人で「呑気連(のんきれん)」などの劇団をつくっていた。

[伊藤 洋 2018年7月20日]

ルネサンス―古代劇の研究と模倣

イタリアに始まったルネサンスの波は、16世紀にはフランスにも及び、ギリシア・ローマの古代劇の研究・翻訳が盛んになり、人文主義者(ユマニスト)によるその模倣と移植の試みが行われた。エティエンヌ・ジョデルの『囚(とら)われのクレオパトラ』(1552)は主題を古代に求めた、フランス語による最初の人文主義悲劇であり、「五幕構成で合唱隊が登場し、詠嘆調で筋(すじ)の変化はあまりない」というルネサンス悲劇の特徴が明確に現れている。ジャン・ド・ラ・タイユJean de La Taille(1540ころ―1607ころ)の『怒れるサユル』(1572)など聖書に取材した悲劇も書かれた。このころイタリアの学者によるアリストテレスの『詩学』解説が出版され、フランス演劇史上で初めて悲劇(トラジェディ)tragédieと喜劇(コメディ)comédieの分類や三単一の規則(三一致の法則)が明示された。

 16世紀後半には宗教戦争があり、殺伐とした世相を反映して激越なバロック的傾向が生まれてくる。ロベール・ガルニエの傑作悲劇『ユダヤ女たち』(1583)、アントアーヌ・ド・モンクレチアンAntoine de Montchrestien(1575ころ―1621)の叙情的悲劇『スコットランド女王』(1601)にもその影がみえる。喜劇でも古代を模倣して、前記ジョデルが『ウージェーヌ』(1553)を発表するが、あとはピエール・ド・ラリベのイタリア喜劇の翻案が注目される程度である。重要なのは16世紀中葉以後のイタリアの即興仮面喜劇の劇団コメディア・デラルテの来仏で、その人気によってフランスのファルスも見直され、両者が融合してモリエールなどに影響を与えることになる。職業劇団や女優の出現もこの世紀なかばころのことである。

[伊藤 洋 2018年7月22日]

17世紀―バロック演劇から古典主義演劇へ

16世紀末から17世紀前半の演劇は複雑な筋をもち、事件が錯綜(さくそう)するバロック演劇であったが、その演劇性が後の古典主義演劇の土壌になる。荒唐無稽(こうとうむけい)な冒険談バロック悲喜劇(トラジ・コメディ)tragi-comédieは、ガルニエのフランス初の悲喜劇『ブラダマント』(1582)以来盛んだったし、イタリアの影響による羊飼いの恋物語「田園劇(パストラル)」pastoraleも、宮廷バレエとともに宮廷人に愛された。多作家アレクサンドル・アルディはパリ唯一のブルゴーニュ座(1548年創立)の座付作者として劇的葛藤(かっとう)に富む各種の劇を書いた。1630年ごろから上流家庭の子女たちも劇場に通い始め、上品で合理的な演劇が望まれるようになった。1634年にはパリに、1629年から使われていた室内掌球場(テニスコートの一種)を改造して第二の常設劇場マレー座が正式に誕生した。同年、規則にかなった悲劇としてジャン・ロトルーが『死にゆくエルキュール』をブルゴーニュ座で、ジャン・メーレが『ソフォニスブ』をマレー座で発表、以後この二つの劇場がそれぞれ作者を抱えて競争することになる。

 1637年にはピエール・コルネイユの悲喜劇『ル・シッド』がマレー座で初演され、画期的な大成功を収める。するとそのころ確立され始めていた古典主義演劇の規則(三単一の規則、ジャンルの峻別(しゅんべつ)、真実らしさ、礼節など)にもとるとして論争がおこり、宰相リシュリュー創設のアカデミー・フランセーズの裁定を受けた。これを契機にバロック演劇から古典主義演劇への転換が始まる。以後コルネイユは『オラース』(1640)など規則を守った英雄意志悲劇の傑作を雄勁(ゆうけい)な韻文で書いた。これに対し規則を最初から受け入れ、流麗な韻文で宿命的情念の悲劇『アンドロマック』(1667)などを書いたのがジャン・ラシーヌである。彼によって秩序と均衡を特徴とする古典悲劇は完成し、ことばがすべてを描写する「ことばの演劇」も確立された。

 1658年からは、パリに第三の劇場(パレ・ロワイヤル劇場)ができ、モリエール一座がそこを使い始めた。モリエールは、喜劇『タルチュフ』(1664~1669)などを書いて、従来の低俗な喜劇を文学的な性格喜劇として完成し、一段低くみられていた喜劇を悲劇と同等の位置にまで高めた。これらの悲劇も喜劇も五幕構成、十二音綴(じゅうにおんてつ)詩句(アレクサンドランalexandrinの文学的にも優れた韻文で書かれ、ここに文学戯曲の最盛期が現出した。世紀後半のフィリップ・キノーやトマ・コルネイユらは優雅な恋愛劇を書くが、とくにキノーは、1672年王立音楽アカデミー(オペラ座)が設立され、作曲家ジャン・バティスト・リュリがそこの独占権を得ると、台本作者としてオペラ界に転身する。こうして「音楽入りの演劇」(オペラ)が制度的に「ことばの演劇」と分離された。モリエールの死後1680年に誕生した国立劇場コメディ・フランセーズは、主として後者の殿堂になる。

[伊藤 洋]

18世紀―喜劇と市民劇

モリエールの影響を受けて、17世紀末からジャン・フランソア・ルニャールやアラン・ルネ・ルサージュが喜劇を書き、プロスペル・ジョリオ・ド・クレビヨン(父)が残虐な悲劇を書いたが、一般に悲劇は崩壊し喜劇が伸展する。シェークスピアに魅せられた啓蒙(けいもう)思想家ボルテールは『オセロ』をもとに『ザイール』(1732)などを書き、古典悲劇を再興しようとするが成功はしなかった。ピエール・カルレ・ド・シャンブラン・ド・マリボーは、1716年からパリに定住していたイタリア人劇団のために『愛と偶然との戯れ』(1730)などを書き、繊細な恋愛感情を分析して、モリエールとは異なる喜劇をつくった。百科全書派の哲学者ドニ・ディドロは古典主義演劇脱却を目ざして、悲劇と喜劇の中間に位する、より近代的な散文劇として市民劇(ドラム・ブルジョア)drame bourgeoisを提唱し、実作とともにその理論を『劇芸術について』(1758)などに著した。その市民劇理論の実践者としてミシェル・ジャン・スデーヌがいるが、なによりも大革命直前に上演されたピエール・オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェの『フィガロの結婚』(1784)が、喜劇と市民劇をみごとに統合している。この世紀は全体として17世紀の偉大な古典主義演劇の桎梏(しっこく)から脱却し、いかに独自性を発揮するかに苦心した時代といえるが、古典劇の形式はなお崩れることなく19世紀初めまで続く。演劇熱は盛んで、オペラや市(いち)の縁日芝居が人気をよび、多様な演劇が生まれた。ブールバール(大通り)の盛り場に劇場が急増し、ボードビルvaudeville(風刺歌付き喜劇)、オペラ・コミックopéra-comique(歌曲入りの喜劇)、音楽劇(メロドラム)mélodrameなどが上演され、大衆をひきつけていた。

[伊藤 洋 2018年7月20日]

19世紀―ロマン派劇から写実劇へ

1789年の大革命以後ルネ・シャルル・ギルベール・ド・ピクセレクールの怪奇冒険物語風メロドラマが大流行するが、この大衆演劇がロマン派の古典主義戯曲変革の下地になった。古典悲劇俳優フランソア・ジョゼフ・タルマが死んだ翌年、ビクトル・マリ・ユゴーは『クロムウェル』の序文(1827)で古典劇の制約を破るロマン派演劇の宣言をする。コメディ・フランセーズでの彼の『エルナニ』(1830)上演は論争となったが大成功し、ロマン派劇の時代がくる。アレクサンドル・デュマ・ペール(父)の『アントニー』(1831)、アルフレッド・ド・ビニーの『チャタートン』(1835)、ユゴーの『リュイ・ブラス』(1838)などが「聖なる怪物」といわれる名優フレデリック・ルメートルFrédérick Lemaître(1800―1876)たちによって上演され、熱狂的歓迎を受けた。しかしこれらは長続きせず、ロマン派後期のアルフレッド・ド・ミュッセの史劇『ロレンザッチョ』(1834)は、世紀末まで上演されなかった。観客は名女優ラシェルの演じる古典悲劇に魅せられたが、反動としてロマン派の「狂気」に対する「良識」派の作家フランソア・ポンサールFrançois Ponsard(1814―1867)の出現もあった。一方、大衆作家ウージェーヌ・スクリーブ、ビクトリアン・サルドゥーらの「ウェルメイド・プレイ(よくできた芝居)」は大当りし、ジャック・オッフェンバック作曲のオペレッタも盛んだった。またアレクサンドル・デュマ・フィス(子)は『椿姫(つばきひめ)』(1852)など風俗劇を発表し、ウージェーヌ・ラビッシュはボードビルを書いていた。

 これら同時代の風俗劇から、社会問題を扱う深刻な劇として、アンリ・ベックの『からすの群(むれ)』(1882)のような写実劇が生まれ、エミール・ゾラの自然主義演劇理論が生まれた。その影響下でアンドレ・アントアーヌが自由劇場(1887~1896)を創設した。舞台に「実人生の断片」をのせるという立場で、北欧のイプセンらの作品を初紹介し、ジョルジュ・ド・ポルト・リッシュの恋愛心理劇、フランソア・ド・キュレルFrançois de Curel(1854―1928)の思想劇、ジョルジュ・クールトリーヌの小喜劇、ジュール・ルナールの『にんじん』(1900)などを次々に上演した。自然主義を取り入れ、演出面を重視する自由劇場のこの演劇革新運動は、20世紀初めまで各国の近代劇運動に大きな影響を与えた。しかし他方ではその反動として、詩人ポール・フォールの芸術座(1890~1893)、俳優リュネ・ポーの制作座(1893~1929)による象徴派詩人モーリス・メーテルリンクやポール・クローデルの詩劇の紹介、前衛劇の先駆とされるアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』(1896)の上演などがあった。世紀末のエドモン・ロスタンのロマン派風韻文劇『シラノ・ド・ベルジュラック』(1897)の画期的成功は、俳優コンスタン・コクランの名演技によるところ大で、当時の女優サラ・ベルナールやムネ・シュリーMounet-Sully(1841―1916)ら名優の存在と相まって、ここにスターシステム(俳優中心主義)が確立された。

[伊藤 洋 2018年7月20日]

20世紀

演出家の時代

20世紀初頭はジョルジュ・フェードーやサッシャ・ギトリなどのブールバール劇théâtre de boulevardが盛んだったが、演出家ジャック・コポーが1913年、演劇を商業化から救うために文学戯曲を上演する場としてビュー・コロンビエ座を創設する。上演作品はモリエールなど古典のほかにクローデル、プロスペル・メリメなどだが、とりわけシャルル・ビルドラックの『商船テナシチー』(1920)は成功した。コポーの弟子のシャルル・デュランとルイ・ジューベはやがて師のもとを去り、それぞれ反写実主義的演出を手がけ、前者はマルセル・アシャール、アルマン・サラクルーを、後者はジュール・ロマン、ジャン・コクトー、とくにジャン・ジロドゥーの『ジークフリート』(1928)などの演出で成功し、後年の演出家と作家の緊密な協力関係の金字塔を打ち建てた。このデュランとジューベに、若いジャン・アヌイを世に出した白系ロシア人のジョルジュ・ピトエフ、アンリ・ルネ・ルノルマンの心理劇を紹介したガストン・バティの2人を加えた4人の演出家とその劇団が「カルテル4人組」Cartel des quatreをつくって、第二次世界大戦までのフランス演劇界をリードした。その共通点は反自然主義と反商業主義であった。超現実主義(シュルレアリスム)演劇ではロジェ・ビトラックやギヨーム・アポリネールがいるが、特記すべきはアントナン・アルトーである。彼の「残酷演劇(テアトル・ド・ラ・クリュオーテ)」théâtre de la cruauté論(1938)は1950年代の反演劇につながっている。

[伊藤 洋 2018年7月20日]

不条理劇の出現

ジャン・ポール・サルトル、アルベール・カミュ、アヌイは第二次世界大戦中のドイツ占領下で、それぞれ『蠅(はえ)』(1943)、『誤解』(1944)、『アンチゴーヌ』(1944)で抵抗の時代を劇化し、戦後は実存主義演劇や反抗の演劇を発表する。1950年代初め、従来の戯曲作法に反し、筋書き、登場人物の性格や心理を無視し、台詞やことばを解体するところから「反演劇(アンチ・テアトル)」anti-théâtreとか、「不条理劇(テアトル・ド・ラプシュルド)」théâtre de l'absurdeとよばれる「新しい演劇(ヌーボー・テアトル)」nouveau théâtreが生まれた。ウージェーヌ・イヨネスコの『禿(はげ)の女歌手』(1950)、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953)を筆頭に、ジャック・オーディベルチ、アルチュール・アダモフ、ジャン・ジュネらの作品が、彼ら独自のことばで不条理の世界を描いた。一方でミシェル・ド・ゲルドロードやボリス・ビアンの独特な世界も注目され、さらにジャン・ボーティエJean Vauthier(1910―1992)、マルグリット・デュラス、フランソア・ビエドゥーら詩的言語に特別に関心をもつ劇作家たちも現れる。共通していえることは、戯曲構造を破壊することによって演劇性とは何かを探る試みだった。

 この流れに属さずに1960年代の演劇を担った若手劇作家がスペイン出身のフェルナンド・アラバールで、その作品は南米アルゼンチン出身のジョルジュ・ラベリ、ジェローム・サバリJérôme Savary(1942―2013)、ビクトール・ガルシアという3人の演出家の手で、ネオバロックとして上演され反響をよんだ。また戦後の演劇人として、デュランの弟子で演出家のジャン・ルイ・バローとジャン・ビラールは欠かせない。バローは1925年に書かれたまま未上演だったクローデルの大作『繻子(しゅす)の靴』を1943年に初演し、第二次世界大戦後も宇宙的空間をもつクローデルの主要な詩劇を上演し、「全体演劇(テアトル・トタル)」théâtre totalを実現した。夫人の女優マドレーヌ・ルノーと結成したルノー‐バロー劇団は、ほかにもイヨネスコの『犀(さい)』(1960)、ベケットの『美(うる)わしの日々』(1963)、ジュネの『屏風(びょうぶ)』(1966)などを上演して1950~1960年代のフランス演劇の中心だった。一方ビラールは、TNP(テーエヌペー)(国立民衆劇場)やアビニョン演劇祭を主宰して、俳優ジェラール・フィリップ、マリア・カザレスMaria Casarès(1922―1997)らとともに古典を上演し、演劇を民衆のものにするために貢献した。これに次ぐ演出家はブレヒト演劇の実践者であるロジェ・プランションやアントアーヌ・ビテーズで、前者は古典の新解釈によってモリエールの『タルチュフ』を1962年に上演するなどして新生面を開いた。一方アンドレ・ルッサン、マルク・カモレッティMarc Camoletti(1923―2003)らのブールバール劇はつねに大衆を魅了している。

[伊藤 洋 2018年7月20日]

1968年以後―肉体の演劇

1968年の「五月革命」前後に来仏したポーランドの演出家イェジュイ・グロトフスキやアメリカのリビング・シアターに刺激されて、演劇の根源的エネルギーを引き出すために肉体を重視する動きが、フランスにも生まれてきた。これは演劇についての本質的な問いかけであり、「ことばの演劇」への対決でもあった。1970年代にその流れをくんだ女性演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンAriane Mnouchkine(1939― )の太陽劇団が集団制作『1789年』(1970)を成功させる。オペラやバレエ、さらには日本の舞踏などが見直されているのもその表れである。1980年代のフランス演劇は、パトリス・シェローPatrice Chéreau(1944―2013)、ジャン・ピエール・バンサンJean-Pierre Vincent(1942―2020)、ジャック・ラサールJacques Lassalle(1936―2018)らの演出家主導が強くなり、古典の再読解とともに、肉体とことばの関係・調和を模索し、探求してきた。劇作家について触れると、1970年代に活躍した劇作家として、ミシェル・ビナベールMichel Vinaver(1927― )が企業人の立場から『求職』(1973)などを発表し、ジャン・クロード・グランベールは『アトリエ』(1979)などでユダヤ人問題を軽妙に扱って成功した。1980年代にはエイズで夭逝(ようせい)したベルナール・マリ・コルテスBernard-Marie Koltés(1948―1989)が『黒人と犬どもの闘い』(1983)や『綿畑の孤独の中で』(1987)などで野性的な叙情性を表現し、シェローの舞台化で話題になった。

 第二次世界大戦後、地方都市に国立演劇センターを創設した政府・文化省の演劇地方分散化政策(デサントラリザシヨン)が功を奏し、やがてパリ以外の地方でも演劇は活発になった。一方、国際交流も盛んになった。1970年代には、イギリスのピーター・ブルックがパリに国際演劇研究センター(CIRT(シルト)、1974年国際演劇創造センター、CICT(シクト)と改称)を創設し、世界各国の演劇人を集めて活動を始めた。また、1983年にはパリのオデオン座に「オデオン・ヨーロッパ劇場」がつくられて、初代総監督にイタリアのジョルジョ・ストレーレルが就任、その後スペインのルイス・パスクワルLluis Pasqual(1951― )、フランスのジョルジュ・ラボーダンGeorges Lavaudant(1947― )が総監督になって注目すべき成果をあげた。ほかにもアメリカのボブ(本名ロバート)・ウィルソンBob(Robert) Wilson(1941― )、ドイツのペーター・シュタインPeter Stein(1937― )、クラウス・ミヒャエル・グリューバーKlaus Michael Grüber(1941―2008)ら著名な演出家たちがフランスで舞台をつくった。1990年代になると国際交流はますます盛んになり、いつまでも収まらない戦争、人類共通の災禍であるエイズの問題などが国際的な規模で取り上げられるようになった。こうして各国の美学が混じり合い、新しい舞台づくりを競い合うことで、今日のフランスの舞台は非常に活発でバラエティに富んだものになっている。このことは、ヤスミナ・レザYasmina Reza(1959― )、オリビエ・ピーOlivier Py(1965― )、グザビエ・デュランジェXavier Durringer(1963― )ら多様な若手劇作家の輩出にもつながっている。

[伊藤 洋]

日本のフランス演劇

1919年(大正8)に渡仏してコポーに学んだ岸田国士(くにお)は、フランスの「ことばの演劇」を日本に移植すべく、自ら劇作をし、岩田豊雄(とよお)(獅子文六(ししぶんろく))らとともにフランス近代劇を翻訳・紹介し、1937年(昭和12)に文学座を創立した。第二次世界大戦後は加藤道夫、芥川比呂志(あくたがわひろし)らの文学座によるサルトル、カミュの紹介、浅利慶太(1933―2018)らの劇団四季(1953年創立)によるアヌイ、ジロドゥー上演と続き、1960年代にはベケットなどフランスの1950年代前衛劇が導入され、1970年代初めの一時期アラバールももてはやされた。ほかにテアトル・エコー(1950年創立)やNLT(1964年創立)などの劇団によるブールバール劇上演も行われた。劇作家としてはラシーヌに心酔した三島由紀夫、モリエール、アヌイの影響を受けた矢代静一、ベケットら前衛劇に触発された別役実(べつやくみのる)、佐藤信(まこと)(1943― )、若手では鴻上尚史(こうかみしょうじ)(1958― )などが現れた。1980年代にはブラック・ユーモア作家ギィ・フォワシィの数作品が上演され、またラシーヌが渡辺守章(もりあき)(1933―2021)の新たな翻訳・演出で連続上演されるなど多様な面を示した。渡辺演出の日本語訳ラシーヌ『フェードル』は、1986年パリ公演をして注目を浴びた。

 このころから能や歌舞伎(かぶき)のみならず現代演劇の海外公演も盛んになり、寺山修司主宰の劇団「天井桟敷(さじき)」や鈴木忠志(ただし)(1939― )主宰の劇団「SCOT(スコット)」などがパリ公演を果たし、舞踏集団の公演もフランスで高く評価された。1990年代以後は、日仏合同制作も目だつようになり、なかでも若手劇作家平田オリザ(1962― )作『東京ノート』(1994)が仏訳され、2000年に作者の演出でフランス各地で上演されたことなど、国際交流が作品の輸入だけでなく輸出面でも目覚ましくなってきていることは特筆に価する。

[伊藤 洋]

『本庄桂輔著『フランス近代劇史』(1969・新潮社)』『A・アダン著、今野一雄訳『フランス古典劇』(1971・白水社)』『菅原太郎著『西洋演劇史』(1973・演劇出版社)』『渡辺守章他著『フランス文学講座4 演劇』(1977・大修館書店)』『M・コルヴァン著、利光哲夫訳『フランスの前衛劇』(1982・白水社)』『佐伯隆幸著『20世紀演劇の精神史』(1982・晶文社)』『川島順平著『フランス演劇とその周辺』(1986・駿河台出版社)』『風間研著『パリの芝居小屋から』(1987・筑摩書房)』『藤井康生著『フランス・バロック演劇研究』(1995・平凡社)』『P・ドゥヴォー著、伊藤洋訳『コメディ=フランセーズ』(1995・白水社)』『風間研著『幕間のパリ』(1995・NTT出版)』『鈴木康司著『闘うフィガロ――ボーマルシェ一代記』(1997・大修館書店)』『戸張規子著『フランス悲劇女優の誕生――パリ・宮廷の華』(1998・人文書院)』『岩瀬孝・佐藤実枝・伊藤洋著『フランス演劇史概説』増補新装版(1999・早稲田大学出版部)』『R・ギシュメール著、伊藤洋訳『フランス古典喜劇』(1999・白水社)』『橋本能著『遠近法と仕掛け芝居――17世紀フランスのセノグラフィ』(2000・中央大学出版部)』『ギー・フォアシィ、フランソワーズ・ドラン、シモーヌ・ド・ボーボワール、フランソワーズ・サガン他著、柴田耕太郎訳『現代フランス演劇傑作選』(2001・演劇出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「フランス演劇」の意味・わかりやすい解説

フランス演劇 (フランスえんげき)

中世から現代に至るフランス演劇の大きな特徴は,(1)歴史的には,17世紀に起こった一連の変化・断絶を軸として,それ以前とそれ以後に大別され,17世紀以降の演劇の多くのものが,劇場における上演という形にせよ,劇文学の読書という形にせよ,今日まで一応は連続して共有されてきたのに対し,17世紀以前の演劇は,少数の例外を除いて,演劇史あるいは文学史の〈知識〉にとどまること,(2)構造的には,17世紀に舞台芸術諸ジャンルの枠組み(〈言葉の演劇〉,オペラ,バレエ等)が成立し,国庫補助を含むその制度化(王立音楽アカデミーは1669年,コメディ・フランセーズは1680年に開設された)が進むと,演劇活動のパリの劇場への集中化が行われ,演劇表現内部における〈言葉の演劇〉の優位とそれに伴う文学戯曲重視の伝統が確立したことである。特に最後の点は,コルネイユ,モリエール,ラシーヌに代表される劇文学が,一般に諸芸術の内部で規範と見なされるに至ったことと相まって,以後300年のフランス演劇とフランス文化に決定的な役割を果たした。

中世フランスは,ヨーロッパの中でも,宗教劇・世俗劇ともに隆盛を見た地域だった。宗教劇は,10世紀にキリスト降誕祭と復活祭の典礼にラテン語による対話を加えた教会堂内での典礼劇に始まり,12世紀後半のフランス語のみによる準典礼劇(《アダンの劇》等)を経て,13世紀には北フランスのアラスに代表される新興商工業都市の,町民階級自身の知識人による風俗劇的要素の濃い劇作術を生み(《アラスのクルトア》,J. ボデル《聖ニコラ劇》,リュトブフ《テオフィルの奇跡劇》等),最後に,14世紀以降,16世紀中葉を絶頂とする〈聖史劇(ミステールmystère)〉に結実する。ゴシック時代の都市を挙げての一大祝典劇であるこれら大聖史劇は,受難信仰とともに〈受難劇(パッシヨンpassion)〉として,次いでパリを中心にした聖母信仰の隆盛とともに〈聖母奇跡劇miracle de Notre-Dame〉として流行し,ともに専門の上演組合をもち,1402年には最初の常設劇場さえできた。その上演は,〈屋台(マンシヨン)〉と呼ぶ演技場(ば)を連ねた野外の並列舞台で行われた。バランシエンヌのそれの記録(ただしかなり後になってのもの)が名高いが,15世紀後半には,J.フーケ描く《聖女アポリーヌの殉教》にうかがえるごとく,閉ざされた空間に客席を円形に配したものが多かったようである。グレバンArnoul Gréban(1410ころ-70ころ)の《受難の聖史劇Mystère de la Passion》が3万5000行の詩句,400人の登場人物,4日にわたる上演時間を要したのをはじめ,上演に数週間を要するものもあった。こうして受難劇が本来の宗教的効果を失って,あまりにも豪奢でなまなましく,煽情的かつ幻想的なスペクタクルとなったため,1548年,パリ高等法院は受難劇禁止令を出すが,この流行は16世紀末まで続き,バロック演劇の隆盛とともに姿を消す。なお,16世紀後半の宗教戦争の激化の中で,絶対王権への共同幻想を結晶させる役割を果たすのはイタリア起源の〈宮廷バレエ〉であり(1581年の《王妃の演劇的バレエ》に始まる),それはのちにルイ14世によるベルサイユ宮における《魔法の島の楽しみLes plaisirs de l'île enchantée》(1664)を頂点とする,古代神話の衣装をまとった絶対王権顕揚の世俗的大祝典劇を生む。キリスト教の典礼や物語にのっとった宗教劇は,バロック時代の劇作や,J.deロトルー《聖ジュネスト》,コルネイユ《ポリュクト》あるいはラシーヌ晩年の2悲劇の例はあるものの,以後は19世紀末のP.クローデルの出現まで姿を消す。

 中世ゴシック都市における大聖史劇上演には,同時代の他の舞台表現,すなわち〈阿呆劇(ソティsottie,sotie)〉〈教訓劇(道徳劇)moralité〉〈笑劇farce〉などもプログラムに組み込まれることが多かった。なかでも阿呆劇のカーニバル的反世界と笑劇の風刺的喜劇性は,イタリアやスペインの喜劇の影響とともに,17世紀喜劇の底流を作る(日本で飯沢匡翻案狂言《濯ぎ川》ともなった《洗濯桶》や《ピエール・パトラン先生》等)。また,これらとはいささか異質な系譜に,13世紀のアダン・ド・ラ・アルの《葉陰の劇Jeu de la feuillée》等があり,その田園的幻想によって,17世紀以降のオペラや田園劇の一つの淵源となる。

しかし,これら中世演劇の大部分は,16世紀後半の宗教戦争を境に,17世紀へと生き残らなかった。16世紀の努力は,学寮における古代ギリシア・ローマの劇作と詩法の発見,ならびに宮廷詩人でもあった人文学者(ユマニスト)によるそれらの模倣と移植の試みである。E.ジョデルの《捕われのクレオパトラ》(1552)を嚆矢(こうし)に,フランス語による古代風悲劇が作られ,学寮や地方巡業劇団により上演された。なかでも,R.ガルニエとA.deモンクレティアンは,古代的規則の要諦とバロック的な対立・葛藤の表現を統合しようとした。喜劇についても古代の模倣が行われたが,より重要なことは,イタリア喜劇団によって,演技的にはコメディア・デラルテの高度な即興劇が,劇作術的には本格喜劇(コメディア・ソステヌータ)がもたらされたことである。後者はラリベーPierre de Larivey(1540ころ-1619)の《幽霊》を生み,前者は16世紀末から17世紀初頭にかけての笑劇の活力を支えた。当時のパリの唯一の常設劇場で受難劇組合の所有だったブルゴーニュ館劇場(日本では〈ブルゴーニュ座〉と通称)の笑劇トリオ(ゴーティエ・ガルギーユGaultier-Garguille(1572?-1633),グロ・ギヨームGros-Guillaume(?-1634),チュルリュパンTurlupin(1587?-1637))の成功や,ポン・ヌフ広場のタバラン兄弟の滑稽(こつけい)寸劇に代表される大道芸にそれはうかがえる。

しかし17世紀初頭にアルディAlexandre Hardy(1570ころ-1632ころ)がブルゴーニュ座座付作者として成功したことは,筋の展開も豊かで劇的葛藤に富む〈悲喜劇(トラジ・コメディ)〉や〈田園劇(パストラル)〉といった新しい〈戯曲の上演〉が時代の好みとなったことを示している。1634年には,マレー地区の掌球場(ジュー・ド・ポーム)を改装したもう一つの劇場がマレー座として常設小屋となる。折しも宰相・枢機卿リシュリューの文化政策への着手と相まって,演劇が,常設劇場,しかもパリの常設劇場で演じられる文学的にも質の高い戯曲の上演を中心とするように決定的に変わり,演劇の社会的ステータスが飛躍的に上昇する(コルネイユのバロック喜劇《芝居の幻想》がその間の事情をよく語っている)。ブルゴーニュ座のアルディ,ロトルー,マレー座のトリスタン・レルミットTristan L'Hermite(1601-55),コルネイユといった座付作者の競争が劇場の盛衰をも決するという現象もこの時期に初めて起こる。もっとも,〈言葉の演劇〉と劇詩人の君臨は一挙に確立したわけではない。イタリア喜劇団は国王の庇護の下にパリの芝居の重要な要素であり続けるし,40年代には,宰相・枢機卿マザランの努力でイタリア・オペラが導入され,G.トレリ,ビガラーニの〈機械仕掛け〉による音楽入り大スペクタクルは,フランスにおけるオペラとバレエの成立に決定的な役割を果たす。しかし,真にフランス演劇をフランス演劇たらしめたのは,1637年初演のコルネイユ作《ル・シッド》から77年初演のラシーヌ作《フェードル》に至る40年間の,いわゆる〈古典主義劇作術〉確立の体験である(なお,古代作家を規範とした〈規則にかなった悲劇〉の最初のものは,ロトルーの《死にゆくエルキュール》とメレJean Mairet(1604-86)の《ソフォニスブ》で,ともに1634年の作であり,コルネイユは《シンナ》《オラース》でそれを果たす)。上記《ル・シッド》,モリエールの《女房学校》,ラシーヌ《アンドロマック》という17世紀の三大ヒットは,同時に三つの大論争の場であり,《ル・シッド》論争のごとくアカデミー・フランセーズの介入で始まった規則議論から,後2者についてのようにライバル劇団による批判劇上演までを含めて,それらはなまなましい現場的事件であった。そして結局は,古代劇の規範を,万人に等しくわかち与えられている理性=良識に照らして最も納得性のある劇作の基準として受け入れるのであるが,コルネイユ,モリエール,ラシーヌらの実作者としての反省と,ドービニャック師François Hédelin,Abbé d'Aubignac(1604-76)《演劇作法》やN.ボアロー《詩法》に至る理論家の批評的言説は,〈言葉の演劇〉の傑作の群と相まって,優れて構造的な有機体である演劇が,自分自身を創造するとともに思考する場として〈言葉〉というものを手に入れる体験でもあった。古典主義劇作術とは,人間の劇を,普遍的(と17世紀の知識人が考えた)姿において描くことであり,そのために悲劇の素材はギリシア・ローマ神話やローマ史に限られ,不可避的に同時代の風俗劇という様相をもつ喜劇においてさえ,芝居の約束ごととしての置換えを必要としていた。作業の上でのこのような〈距離〉の存在が,17世紀劇文学の形式的な堅牢さと完璧さを生み出し,それが様式上の特徴ともなるが(悲劇は定型12音節詩句(アレクサンドラン)による五幕構成であり,喜劇でもモリエール《人間嫌い》のような同形式の傑作が書かれる),しかしそれは無味乾燥で静的な抽象構造ではなく,バロック時代の波瀾万丈の〈対立・葛藤の展開〉を,〈三統一の規則〉をはじめとする古代の劇作術を規範にした〈構造的集中化〉の作業によって,新しい,他に類例を見ない劇的な力へと取り返したものだといえる。

 悲劇の場合,単に結末が悲惨ということではなく,王侯貴族が体験する劇であり,かつそれが国家の運命にかかわる事件である。コルネイユの悲劇は,偉大な個人の自由性が,その言葉と行動を介して,政治の大きなメカニズムに深くかかわる権力意志の劇を描き,ラシーヌ悲劇は,多くは恋の情念である宿命的情念(《ブリタニキュス》の権力への欲望も情念である)に取り憑(つ)かれた人間の宿命と自由性のからみ合いの上に近代的な悲劇性を立てる。形象は王侯貴族であっても,それはこれら町民階級(ブルジョアジー)出身の劇詩人たちの,そして同時代の観客たちの,共同幻想の象徴的表象として機能していたのであり,その限りで人間の条件の劇たりえたのである。したがって,モリエールの遂行した一大変革にしても,喜劇を,単なる風刺や笑劇的効果を超えたところで,状況の喜劇から性格喜劇に及ぶ文学戯曲として精緻に洗練したというだけではない。というのもモリエールは,人間の〈弱み〉の仕組みをあばくのが〈道化〉であると同時に,〈道化〉を必要とすること自体が人間の〈存在の劇〉であるような劇作(《タルチュフ》《ドン・ジュアン》)を,同時代の最も先鋭なイデオロギー的問題に照明を当てることで書いているからである。しかしこれらの構造体は,絶対王政をそこに同化しつつ,行政・経済・文化において支えていた町民階級の力が,自立を欲するまでに強大になれば,当然にその機能も同じではなくなるのであった。

 1672年,J.B.リュリが〈王立音楽アカデミー〉の独占権の勅許を得,劇場における音楽とバレエが制度的に〈言葉の演劇〉から切り離され,80年にはブルゴーニュ座とモリエール亡き後のその劇団が勅命により合体されて〈コメディ・フランセーズ〉となり,三大作家を中心とする〈古典〉の上演を使命とするようになると,〈演劇(テアートル)〉という言葉が〈言葉の演劇〉を指す傾向は顕著になる。リュリのオペラ(P. キノー台本)などによるバレエ入りフランス・オペラの隆盛は,18世紀にはJ.P.ラモーへと引き継がれ,それに対する批判がルソーを理論家とする〈道化論争querelle des Bouffons〉となるが,これはすでに,のち1759年にサン・ジェルマンの市(いち)において初演される,モンシニーPierre Alexandre Monsigny(1729-1817)の最初の〈オペラ・コミック〉(《軽はずみな告白》)を予告している。
古典主義[文学]

18世紀は,ボルテール,デュ・ボス師をはじめとする批評的言説によって,まずは17世紀の栄光を批判的に確立する〈ふるい〉の役を果たす。ボルテール自身は,シェークスピアに注目した最初の重要なフランス人であり,同時代人にとっては悲劇の神様であったが,その新古典主義的悲劇は後代には残らない。ちなみに古典主義劇作術がヨーロッパの規範であったことの痕跡は,たとえばモーツァルトのオペラ・セーリアにうかがうことができる。それに反して,マリボーの喜劇(彼は,L. リッコボーニを団長として再びパリに定住していたイタリア喜劇団のために,そのコメディア・デラルテの〈役者体〉を使って,《偽りの告白》《二重の心変り》等の残酷なまでに洗練された恋の駆引きの遊戯を書く),A.R.ルサージュの〈風刺歌付喜劇(ボードビル)〉をはじめとする市の〈縁日芝居〉(市はサン・ジェルマンやサン・ローランの修道院領内で2ヵ月近く開かれた),そのような〈縁日芝居〉のダイナミックな喜劇性と危険な官能的遊戯を取り返した《フィガロの結婚》によって大革命前夜のパリを沸かせたボーマルシェ,古き悲劇に代わる〈市民劇(ドラム・ブルジョア)〉の理念を提唱し,また俳優という両義的存在について哲学的反省を展開したディドロ(《俳優についての逆説》が書かれた時代は,悲劇女優クレロン嬢の《回想録》を生む時代でもあった),これらが18世紀の変革の側にいる。特に市の芝居の隆盛の結果として,1759年以降,パリ北東の周縁部に当たるタンプル大通りに常設小屋が急増し,市の芝居で当たっていた〈オペラ・コミック〉をはじめとする新旧さまざまな舞台表現の場となり,特に大革命の〈人権宣言〉によって劇場開設権が万人のものと認められて以来(もちろん,まったくそのとおりにいったわけではなかったが),都市の周縁部の〈劇場街〉が,修道院の市のごとき〈宗規的時空〉からまったく自由に,かつ公式の劇場のような国庫補助も受けずに出現し隆盛を誇ったことは,フランス演劇史上の特筆すべき大事件であった。映画《天井桟敷の人々》(1944)は,のちの19世紀30年代のタンプル大通りをみごとに再現したが,この芝居街は第二帝政下,1860年代にオスマン男爵の都市計画で取り壊される。しかしその後にできた現在のグラン・ブールバールが,中心を西に移しつつも劇場街として隆盛をみるという劇場地図は,20世紀の前半までほとんど変わらなかった。

タンプル大通りが〈犯罪大通り〉と呼ばれたのは,そこで流行した〈メロドラム〉(メロドラマ)という勧善懲悪お涙頂戴のサスペンス劇で無闇と殺人が行われたからであるが,G.deピクセレクールを代表とするこの大衆演劇は,1830年代から40年代にかけてのロマン派による文学戯曲変革の演劇的下地を作る。ユゴーによるロマン派演劇宣言《クロムウェルの序文》(1827),コメディ・フランセーズにおけるユゴー《エルナニ》初演(1830)の際の騒動(いわゆる〈《エルナニ》の戦い〉)から《城主》の失敗(1840)までの10年間を中心にするロマン派の詩人や作家の劇作は,〈犯罪大通り〉の繁栄とともに19世紀フランス演劇の第一の大きな時期を構成するが,しかしそこにはすでに,文学史と演劇史との〈ずれゆき〉をかいま見せている。たとえば,シェークスピアを神としたこの世代の最も重要な作品であるミュッセの《ロレンザッチョ》は世紀末まで上演されず,商業的成功としては,大デュマの〈時代物〉(〈マントと剣の劇〉と呼ばれる。《アンリ3世とその宮廷》など)がまず一時代を画した後,第二帝政成立前後,1850年代には小デュマの《椿姫》(1852初演)を嚆矢とする〈同時代風俗劇〉が劇場を支配する。小デュマ,オージエÉmile Augier(1820-89),V.サルドゥーが同時代ブルジョアジーの金や性や家族を扱うこの劇作の御三家であり,この現象が19世紀演劇の第2の転機となる。同時代風俗劇は,社会問題を扱う深刻な〈劇(ドラム)〉としては,H.ベックの写実主義劇作術とÉ.ゾラの自然主義演劇へと発展し,逆転と飛躍に満ちた軽喜劇としては,スクリーブEugène Scribe(1791-1861)の〈歌抜きボードビル〉を受けて〈喜劇としてのボードビル〉を完成させたE.ラビッシュとそれを継ぐG.フェードーに,あるいは第二帝政期パリの華であるJ.オッフェンバックのオペレッタに結実する。ボードレールの説く〈現代生活〉をそのまま映す鏡となることで〈近代劇〉は成立する。それは小説と劇場が重なる現象でもあり,《椿姫》以来小説の舞台化が流行する。と同時に,フローベール,ゴンクールら同時代文学(小説)の先鋭的な部分は劇場では成功せず,あるいはマラルメを師とする象徴派(象徴主義)のように劇場への両義的思い入れを抱きつつも劇場から排除される。象徴派あるいはその風土から出発した劇作の中では,M.メーテルリンクは上演されたが,A.ジャリの真価が認められるのはダダとシュルレアリスム以後であり,P.クローデルの劇の大々的上演は半世紀以上後のことになる。しかし,ドレフュス事件をはじめとする暗い世紀末におけるE.ロスタン《シラノ・ド・ベルジュラック》のロマン派風韻文喜劇の国民的成功は,まったく例外的な劇場での成功であった。

19世紀はまた,〈聖なる怪物〉と呼ばれたロマン派演劇の名優をはじめとする役者の君臨した世紀でもあった。大革命にもかかわらず継続したコメディ・フランセーズには,ナポレオンごひいきの擬古典主義的悲劇役者から,ロマン派好みの悲劇女優ラシェルを経て,世紀末にラシーヌ悲劇とユゴーとシェークスピアをともに演じえたサラ・ベルナールとムーネ・シュリーに至るまで名優が輩出する。しかし〈聖なる怪物〉の最も典型的な姿は,《天井桟敷の人々》の主人公の一人フレデリック・ルメートルにみることができる。彼はメロドラムの破壊的顕揚によって,メロドラムとロマン派演劇のヒーローとなり,舞台と実人生とを,生と自由性と演戯の限りない蕩尽の場としたからである。しかし,名優の芸術的独善が商業主義の君臨と表裏一体をなすと考えられるに至り,ゾラの自然主義演劇理論によるA.アントアーヌの自由劇場と,象徴派をよりどころとしたリュニェ・ポーの制作座という二つの〈小劇場運動〉が,初めて演劇の〈前衛〉として登場し,新しい文学戯曲の上演を使命とする〈演出家〉の市民権を主張する。これが19世紀の第3の転機であるが,一方この時期に,劇場から排除されていた詩人にほかならぬマラルメは,管弦楽演奏会やオルガン演奏会の流行とワーグナー楽劇に演劇が見失った〈祝祭性〉への〈群集〉の渇望を読み,カトリックの典礼に国家的祝祭の演出モデルを認め,また,バレエやパントマイム等の身体・空間芸術に演劇の基本的魅力を感じとり,しかも韻文劇に代表される〈言葉の演劇〉の限界的実験の必要をも説いていた。このマラルメの視座は,20世紀演劇の問題意識の先取りであった。

20世紀フランス演劇をその変革の相においてとらえれば,大別して三つの時期を認めることができる。第1は,1913年,J.コポーによる〈ビユー・コロンビエ座〉創設から,両大戦間におけるL.ジュベ,C.デュラン,G.ピトエフ,G.バティの4人の演出家による〈カルテル四人組〉の時代,第2は,J.L.バローによるカルテルの遺産の発展と並行して50年代に起きる三つの事件,すなわちJ.ビラールによる〈民衆演劇運動〉と〈演劇の地方分化〉の成功,E.イヨネスコ,S.ベケット,A.アダモフ,J.ジュネらの〈50年代不条理劇〉の出現,そして〈ブレヒト革命〉であり,第3の時期は,68年のいわゆる〈五月革命〉によって一挙に顕在化した社会的・文化的危機の中で,演劇が体験した一連の大きな〈異議申立て〉(A. アルトーの徴の下に広がった〈肉体の演劇〉を中核とする)とその結果である。

演出家で集団の指導者をフランス語でアニマトゥールanimateurと呼び,20世紀を〈アニマトゥールの世紀〉と称するが,コポーはアニマトゥールの枠組みそのものを提示した人物である。彼は自己の演劇理念実現のため,独自の舞台構造をもつ小劇場を拠点劇場として作り(新しい演戯の場),その劇場内の舞台・客席の関係をはじめ,作る側と見る側の関係を一新する(〈運動〉としての演劇)。また,既成の俳優によらず新しい俳優を育成し(新しい演戯体の創造),新しい文学戯曲の発見・上演と,古典の〈再読解〉をレパートリーの中心に据え(演出と劇作術の創造的協力),さらには晩年,拠点をブルゴーニュ地方に移して,地方分化の先駆ともなった。コポーの上演した新しい劇作(J. ルナール,クルトリーヌ,クローデル,C.ビルドラック《商船テナシティ》)や古典(モリエール,シェークスピア喜劇)に比べると,その弟子であったジュベ,デュラン,ロシアから来たピトエフ,ドイツ表現派との接点を作るバティの〈カルテル四人組〉による文学戯曲の上演ははるかに多彩である。ジュベがJ.ロマン(《クノック》),M.アシャール(《お月さまのジャン》),J.コクトー(《地獄の機械》),そして演出家と作家の協力の記念碑となるJ.ジロードゥー(《トロイ戦争は起こらないだろう》《オンディーヌ》)を経てサルトル(《悪魔と神》)を,デュランがL.ピランデロ(《御意にまかす》)からA.サラクルー(《地球は丸い》),サルトル(《蠅》)に至る多彩な作家の初演(ピランデロ作品はフランス初演)を果たしたのに対し,ピトエフ(ピトエフ夫妻)は,クローデル(《交換》)や初期のJ.アヌイ(《荷物なき旅行者》)等を除けば,主としてチェーホフ(《かもめ》),ピランデロ(《エンリコ4世》),イプセン(《人形の家》),F.モルナール(《リリオム》),G.B.ショー(《セント・ジョーン》)等の外国作家を紹介し,またバティはガンティヨンSimon Gantillon(1887-1961。《娼婦マヤ》)などマイナーな作家で成功を収めた。古典では,モリエールがジュベ(《女房学校》《タルチュフ》)とデュラン(《守銭奴》)によって,ラシーヌがバティによって(《ベレニス》《フェードル》),シェークスピアがデュラン(《リチャード3世》),ピトエフ(《ロミオとジュリエット》),バティ(《ハムレット》)によって新しい照明を当てられた。第2次大戦前後からの新しい劇作家の登場も,このカルテルの土壌があってのことであり,すなわちサルトル(《出口なし》),カミュ(《カリギュラ》),初期アヌイ(《アンティゴーヌ》)に代表されるいわゆる実存主義演劇(なおサルトルは自作を〈状況の演劇〉と呼んだ),H.M.deモンテルラン(《死せる女王》)やF.モーリヤック(《アスモデ》)のようにキリスト教にかかわる内心の劇を主題にした劇作,あるいはJ.オーディベルティ(《悪は走る》)のシュルレアリスム的な言語と劇行為の遊戯がそれであるが,これらの戯曲の多くは,19世紀型〈近代劇〉の筆法に拠っている。

この新しい劇作家が登場する時期に,演出家・俳優としては,バローが,カルテルの仕事を戦後へとつなぐ決定的な役割を果たす。デュランとアルトーを師として,すでに30年代には身体に焦点を当てた実験演劇(《死の床にて》)を始めていたこの前衛的演劇人は,ジュベがジロードゥーによって遂行した作業を,アルトーを踏まえつつ,クローデルの劇詩と演劇的宇宙によって果たす。1943年,上演不能とされていたクローデルの大作《繻子(しゆす)の靴》を初演して以来,《真昼に分かつ》《黄金の頭》等その主要作品を上演して,〈全体演劇(テアートル・トタール)〉の実験的根拠とした。女優で夫人のマドレーヌ・ルノーと結成したルノー=バロー劇団は,戦後40年間のフランス演劇の重要な部分を体現してきた。クローデルのほかに,カミュ,サラクルー,モンテルラン,コクトー,アヌイからイヨネスコ(《犀(さい)》),ベケット(《美わしの日日》《わたしじゃない》),ジュネ(《屛風》)を経て,ビエドゥーFrançois Billetdoux(1927-91)やM.デュラス(《一日中木立の中で》《イギリスの恋人》)等に至る新しい劇文学の上演を果たすとともに,他方では,モリエール(《人間嫌い》),ラシーヌ(《ベレニス》《アンドロマック》),マリボー(《偽りの告白》),シェークスピア(ジッド訳《ハムレット》)等の古典の新演出により,カルテルの最も正統かつ偉大な継承者となった。

 バローより少し年少で同じくデュラン門下のビラールは,工場労働者や地方学生という〈民衆的観客〉の組織・動員に力を注ぎ,そのために,ジェラール・フィリップ,マリア・カザレス,アラン・キュニーら,映画でも知られた若いスターと自身俳優でもあるビラールによって,コルネイユ(《ル・シッド》),モリエール(《ドン・ジュアン》)からユゴー(《ルイ・ブラス》),ミュッセ(《ロレンザッチョ》),シェークスピア(《マクベス》)からクライスト(《ホンブルクの公子》)に至る古典の記念碑的上演をした。そのため20世紀の作品は,ピランデロ(《エンリコ4世》),T.S.エリオット(《寺院の殺人》),ジロードゥー(《トロイ戦争は起こらないだろう》),ブレヒト(《肝っ玉おっ母とその子供たち》《アルトゥロ・ウイ》)らに限られた。しかしその民衆演劇運動によって,従来パリの中流以上の,あるいは知的選良の独占物であった演劇が,〈市民の権利〉として自覚され,シャイヨー宮大ホールやアビニョン教皇庁中庭野外舞台といった従来の劇場とは異質の空間や時間(午後9時開演の習慣を8時にした)が開かれた。

 だが,50年代の劇作術上の変革は,不条理劇の作家たちにより〈小劇場〉を中心に行われる。そのような場がイヨネスコ(ルーマニア生れ),S.ベケット(アイルランド生れ),アダモフ(ロシア生れ)といった外国出身の不条理劇作家の周縁性と見合ったのである。さらにジュネも含めたこれらの50年代前衛劇は,登場人物・言葉・劇的虚構の解体を軸とした〈道化による存在の劇〉であるが,それはアルトーとR.ビトラックの協力などを除くと散発的であったシュルレアリスムの演劇における開花であるともいえる(なお,ベルギーの作家M.deゲルドロードも先駆者の一人であった)。R.ブランによるベケット(《ゴドーを待ちながら》《勝負の終り》),アダモフ(《パロディ》),ジュネ(《黒ん坊たち》)の初演をはじめ,J.M.セロー,J.モークレールらによる演出の場はいずれも小劇場であり,その面影はN.バタイユとM.キュブリエ演出のイヨネスコ(《禿の女歌手》《授業》)でロングランを続けているユシェット座にうかがうことができる。しかし70年代からは〈キャフェ・テアートル(カフェ・テアトル)〉がそれにとってかわり,運動的様相は失われる。なお外国人演劇人との出会いとしては,60年代にF.アラバル作品の演出によりデビューする南米出身のトリオ,J.ラベリ(《建築家とアッシリア皇帝》),J.サバリ(《迷路》。のちには〈グラン・マジック・サーカス〉を組織),V.ガルシア(《自動車の墓場》。のちにジュネ《女中たち》の記念碑的演出を残す)を忘れることはできない。

 しかしこの第2の転機の時代における最も重要な新しい型の演劇人はR.プランションである。プランションは,自らの集団を地方都市リヨンの労働者街において〈民衆演劇〉と〈地方分化〉を実践するとともに,また〈ブレヒト革命〉の体現者であり(1954年のベルリーナー・アンサンブルのパリ巡業を機に,R. バルト,B. ドルトらによる《民衆演劇》誌がブレヒト派の牙城となりプランションを支持した),さらに劇作については,イヨネスコ,アダモフ(《パオロ・パオリ》)らの前衛劇を積極的に初演する一方,モリエール(《タルチュフ》),ラシーヌ(《ベレニス》),マリボー(《第二の恋の不意打ち》),シェークスピア(《ヘンリー6世》)らの古典について,現代の知の先鋭的な視座から〈再読解〉を企てた。概して非政治的・非イデオロギー的であったフランスの演劇改革運動に,政治的・イデオロギー的次元を導入しつつ,それを演劇美学の探求とダイナミックな関係におく企ては,以後のP.シェロー,A.ビテーズ,A.ムヌーシュキン,J.P.バンサンらに共通する。それはまた,パリ周縁の劇場の成立を促し,小劇場運動とともに,パリの劇場地図を60年代に大きく変えた。モンテルランらの新作上演やシャロン,イルシュらによる活力ある喜劇の職人芸によってなお主流を誇ってきたコメディ・フランセーズをかっこ付きの〈伝統の牙城〉として孤立させ,ベルスタイン,パニョルからアシャール,ルッサン,アヌイを経て,カモレッティ,ポアレに至るウェルメード・プレー(50年代までは,多くは三角関係を主題とした風俗喜劇)によりロングランを続けていた町中の商業劇場を,〈ブールバール劇〉として否定する視座を普及させることになる。

アルトーが30年代に主張した〈残酷演劇〉の徴の下に,ポーランドのJ.グロトフスキとオフ・オフ・ブロードウェーからきたリビング・シアターの刺激によって出現する〈68年型演劇〉は,〈肉体の演劇〉による〈言葉の演劇〉の廃絶をはじめ,ラディカルな〈異議申立て〉であろうとした。そこではビラール型民衆演劇と地方分化の限界が告発され,〈ブレヒト革命〉の挫折が宣せられる。歴史的に制度と深くかかわってきたフランス演劇が抑圧・排除してきたさまざまな〈外部〉の再評価は,サーカスのようなサブ・カルチャーから東洋演劇に及ぶ。単に演戯空間の構造ではなく,観客との新たな関係を含む演戯の場が発明されねばならず,従来の劇場を排して〈何もない空間〉が選ばれる。また演劇作業の主要な担い手が自らの身体性に賭ける演戯者である以上,独裁的演出家を廃して〈集団制作〉の方法が考えられた。これらの主張を最も組織的に体現したのはムヌーシュキンAriane Mnouchkine(1939- )の〈太陽劇団〉(最大の舞台成果は《1789年》1970)であり,ナンシー国際青年演劇祭が前衛フェスティバルとして脚光を浴びるのも同じ地平である。〈68年型演劇〉は,演劇についての基本的な問いを炸裂させ,その発想や作業を多様化し国際化した。70年代に,オペラの新演出と新しい舞踏によって,19世紀以来,ゴーティエやマラルメのような特殊な関心や,世紀末のワーグナー,20世紀初頭のディアギレフのロシア・バレエ(バレエ・リュッス)などの例外を除くと,演劇の事件と考えられなかったオペラとバレエが,演劇の現代的問題の実験の場となったのもその現れの一つである(たとえばシェロー演出によるバイロイト百年祭《ニーベルングの指環》やベジャール〈20世紀バレエ団〉の成功)。

 80年代は,クローデルのような近代古典を含む〈古典の再読解〉を中心とする劇場における〈言葉の演劇〉の再評価の時期にある。プランション,シェロー,ビテーズを代表とするこの作業は,フランス演劇の最も基底的で重要な伝統に対する批判的な〈読直し〉であり,テキストの言葉の存在と,演戯者の身体の存在との新しい関係の探求を中心にした〈探求の演劇〉であり続けている。
前衛劇

日本における受容に関していえば,フランス文学(あるいは一般に西洋文学)の受容の全般的傾向(19世紀中葉以降の小説と詩を主流とし,それに思想が加わる)を反映して,翻訳・翻案,研究,上演の各レベルで,フランス演劇の知られている部分は限られている。確かにいくつかの個人全集はあり(モリエール,ラシーヌ,コクトー,ジロードゥー,アヌイ,サルトル,カミュ,イヨネスコ,ベケット,ジュネ,アラバルら),作家としての重要さから文学全集に入る場合(クローデル)もあるが,文庫に収められるような作家や作品はきわめて限られている。さらに上演についていえば,〈古典〉(19世紀の近代古典も含めて)は,モリエール(鈴木力衛訳ほか),ボーマルシェ(辰野隆訳ほか),ラシーヌ(三島由紀夫修辞(訳)から近年の新訳まで)はともかく上演されるのに対して,コルネイユ,マリボー,ユゴー,ミュッセはほとんど上演されず,上演に耐える翻訳も少ない。なお,19世紀の作品では,《シラノ・ド・ベルジュラック》(辰野隆・鈴木信太郎訳ほか)はよく親しまれた作品であり,例外的な存在となっている。また,20世紀の作家については,その時々の新風の紹介ということもあって,岩田豊雄らによる文学座での両大戦間近代劇の上演,芥川比呂志,加藤道夫らによる戦後演劇(サルトル,カミュ,アヌイ)の実験的紹介・上演から,劇団四季のジロードゥー,アヌイの上演に至る系譜を形づくっており,それは政治あるいはイデオロギー偏重の新劇界で,〈文学的〉という名の下での脱政治・脱イデオロギー的選択に照応している。逆に,俳優座衛星劇団の若手演劇人たちがサルトルにひかれたのは当然であった。60年代中葉からは,50年代前衛劇の導入が,小劇場方式の発見とともに盛んになり,ベケット,イヨネスコ,ジュネ,アラバルの翻訳や翻案の上演が多くなる。しかし,フランス演劇の精髄である〈言葉の演劇〉という様相との対決は始まったばかりである。その意味で最もひどい上演のされ方をしているのは,構造的であると同時にテンポの早い台詞と状況のアクロバットでお客を沸かす〈ブールバール劇〉であろう。単に日本とフランスの〈商業演劇〉の美学や,客筋・興行政策の違いということだけではなく,演劇としての質のあまりにも大きな落差を露呈させることが多いからである。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランス演劇」の意味・わかりやすい解説

フランス演劇
フランスえんげき

10世紀末,ロアール地方の教会内で行われた復活祭劇に始り,中世には聖史劇や笑劇が栄えたが,宗教改革によって 1548年聖史劇は禁止され,ギリシア・ローマ演劇が模範とされるようになった。以後イタリアのコメディア・デラルテや牧歌劇の影響のもと,宰相リシュリュー公によって職業劇団が育成され,またバレエ,オペラが発展。一方悲劇のコルネイユ,ラシーヌ,喜劇のモリエールの登場によって古典主義時代を迎えた。 18世紀には P.マリボーの恋愛心理劇,D.ディドロの市民劇とその理論,大革命を反映する P.ボーマルシェのフィガロ劇が生れ,19世紀なかばにはユゴーの『エルナニ』を先頭に,ミュッセの抒情喜劇などがロマン主義演劇をにない,世紀末にはメーテルランクや P.クローデルが象徴主義演劇を,ゾラや A.アントアーヌが自然主義演劇を主張。しかしこれらの時代を通じて最も隆盛をきわめたのは,大衆的なブールバール演劇であった。 J.コポーは芸術としての演劇改革を唱え,また A.アルトーらは総合舞台芸術としての演劇を主張して前衛演劇の先駆となった。第2次世界大戦後はサルトル,カミュらの実存主義的な劇作,J.ビラールの劇場の地方分散化運動を経て,1950年代にはベケット,イヨネスコ,A.アダモフらアンチ・テアトルの旗手が登場。演出では R.ブラン,R.プランション,P.シェローらのほか,テアトル・デュ・ソレイユの集団創作が知られる。

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