ドイツ、ルネサンス期の鉱山学者。金属についての最初の技術書『デ・レ・メタリカ』De Re Metallicaの著者として有名である。本名をバウアーGeorg Bauer(「農夫」という意味)といった。3月24日にザクセンのグラウハウに生まれ、ツビカウのラテン語学校に学び、ライプツィヒ大学でギリシア語を学んだ。
1518年ギリシア語教師としてツビカウに招かれ、翌1519年25歳の若さで新設の学校の校長に選ばれた。このころ名前をラテン名のアグリコラに変え、ラテン語の文法に関する著作を刊行した。のちライプツィヒ大学に招かれて講師となった。30歳のとき恩師モゼラヌスPet. Mosellanus(1493―1524)が亡くなり、これを機にイタリアの大学に留学し、おもに医学を学んだ。
イタリアからの帰途、1527~1531年、ボヘミアの鉱山町ヨアヒムスタールの市医となり、かたわら鉱山学、岩石学を研究した。1531~1535年にケムニッツに移住して市医兼修史官として研究を続け、1546年に同市の市長に任命された。当時ケムニッツにも宗教改革運動がおこり、新教徒たちとの激しい口論のさなか、卒中で倒れ、1555年11月21日死去したと伝えられる。
鉱山冶金(やきん)に関するおもな著述は次のとおりである。『ベルマヌス』Bermannus sive de re Metallica(1530)、『採鉱物の性質について』De Natura Fossilium(1546)、『地下物の生成と原因について』De Ortu et Causis Subterranorum(1546)、『古い冶金と新しい冶金について』De Veteribus et Novis Metallis(1546)、『鉱山学用語解説』Rerum Metallicarum Interpretatio(1546)、『金属の価値と貨幣について』De Precio Metallorum et Monetis(1550)、『デ・レ・メタリカ』(1556)。
[山崎俊雄]
古代ローマの元老院議員。フォルム・ユリイForm Julii(今日のフレジュス)に生まれ、ウェスパシアヌス帝のもとでコンスルまで昇進(77)したのち、総督としてブリタニアを統治(77/78~84)。都市文明を導入して先住民の馴致(じゅんち)、隷属化を進める一方、北部への征服地拡大でも一時代を画した。その軍事行動は当初スコットランドを流れるフォース川以南に限られていたが、83年からはカレドニア高地地方侵略を開始。各地に基地を設け、カルガクスCalgacus指揮下の諸種族の抵抗を排してインバネス付近に達した。ローマ艦隊による初のブリテン島周航も彼の時代といわれる。ローマ帰還後、元老院議員、高官の処刑相次ぐドミティアヌス帝晩年の恐怖政治下、93年9月23日に病没した。女婿タキトゥス著の伝記がある。
[栗田伸子]
ドイツ,ザクセン生れの鉱山学者,医者。《デ・レ・メタリカ》を著し,〈鉱山学の父〉とも呼ばれている。本名はバウアーGeorg Bauerで,アグリコラはラテン名。ライプチヒ大学でギリシア語を学び,卒業後ギリシア語の教師をするが,30歳になってイタリアに留学し,ボローニャ,パドバ,フェラーラ各大学で医学・哲学を修めた。イタリアからの帰途,ボヘミアの鉱山町ヨアヒムシュタールで町医者となる。この鉱山町で,鉱山全体についてあらゆることを観察し,採鉱冶金技術全体を体系的にとらえようと試みたのである。その書物がラテン語で書かれた全12巻の《デ・レ・メタリカ》(1550年完成,刊行は死の翌年の1556年)である。まさに医者が人体構造を明らかにするように,鉱山全体を観察しその構造を初めて明らかにしたもので,日本でも1968年に翻訳されたものが出版されている。ほかに,1546年に《石の性質について》と題する鉱物学の書も著している。ヨアヒムシュタールには1527-31年滞在し,その後ケムニッツに移り研究を続け,46年には市長をも務めている。
執筆者:雀部 晶
ローマの政治家,属州総督。ガリア・ナルボネンシスのフォルム・ユリイ(現,フレジュス)で生まれ,マッシリア(現,マルセイユ)で教育を受けた。61年ブリタニアにおける高級将校,64年属州アシアの財務官,66年護民官,68年法務官となり,69年の内乱ではウェスパシアヌスを支持した。71-73年ブリタニアの第20軍団長,74-77年アクイタニア総督,77年コンスル(執政官)となり,78年以後ブリタニア総督として三たびブリタニアに赴任。ローマのブリタニアにおける属州支配を確立するとともに,北進してフォース湾とクライド湾の間の地峡部に進出し,さらにスコットランドの奥地にまで軍を進めた。しかし彼の名声をねたんだ皇帝ドミティアヌスにより85年ころローマに召還され,死ぬまで隠遁生活を送った。彼の娘と結婚した歴史家C.タキトゥスは《ユリウス・アグリコラの生涯と性格について》を書き,彼の業績をたたえている。
執筆者:市川 雅俊
フィンランドの大主教。農民の子としてフィンランド東部のペルナヤで生まれ,現在のロシア領にあるビボルグで教育を受けた。1536年にウィッテンベルクの大学に学び,ルターとメランヒトンの教えを受けた。帰国後トゥルクの学校の教師となり,主教の業務に携わったが,54年にトゥルクの主教に任命された。彼はとくにメランヒトンの影響を受け,幅広い人文学者としての素養を身につけていた。フィンランド語で最初に書かれた《ABC読本》(1543),聖職者のための《祈禱書》(1544),さらに《新約聖書》のフィンランド語訳(1548)を著してフィンランド語の格調を正し,正書法を定めた功績により,フィンランド文学の開祖と仰がれている。彼は政治にも関与し,スウェーデン国王の信任も厚く,ロシアとの平和交渉に当たったが,モスクワからの帰途,病を得て客死した。
執筆者:小泉 保
北欧人文主義の初期の指導者。本名ルロフ・ホイスマンRoelof Huysman。オランダのフローニンゲンに近いバフロに生まれ,1465年ルーバン大学で学位を得,68年以降パビア,フェラーラなどイタリア各地で,とくにギリシア語の研鑽を積んだ。79年帰郷し,翌年フローニンゲン議会法律顧問官に補され,そのころ人文主義の先輩W.ハンスフォルトらと親交を結んだが,84年招かれてハイデルベルク大学古典語教授に就任した。スコラ哲学の方法を批判して理性の自由を説いた《弁証法論De inventione dialectica》(1479)などの著作,また直接にその人格的指導力によって,ドイツおよびネーデルラントにおける聖書研究・古典研究の復興に大いに寄与した。
執筆者:川口 博
ドイツの宗教改革者。アイスレーベンに生まれ,ライプチヒ,ウィッテンベルクで学んだルターの弟子で友人。アイスレーベンやウィッテンベルクで学校長などを務め,のちベルリンで宮廷付説教者,ブランデンブルク侯領の教区長を務めた。律法の理解に関しメランヒトンと(1527),やがてルターと(1537)対立し,さらに1548年のアウクスブルク仮信条協定に妥協的な態度を取り影響力を失った。
執筆者:徳善 義和
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古代ローマの政治家,将軍。ブリタニアの平定とローマ化に特に貢献した。ドミティアヌス帝にうとまれて不遇の晩年を送った。タキトゥスによる彼の伝記『アグリコラ』は有名である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…トラヤヌスの即位とともに文筆活動に入る。最初の作品《アグリコラ》(98)は妻の父G.J.アグリコラの賞賛的伝記で,ブリタニア総督としての義父の功績と諸種族の平定を頂点に,ブリタニアの民族誌をも挿入し,全体としてはドミティアヌス帝に忠誠であったアグリコラをドミティアヌスの犠牲者でもあるとして弁護しようとする。同じ98年の作品である《ゲルマニア》は,その前半部(1~27章)において,一般的にゲルマニアの地理,住民の風俗・習慣,制度を記し,後半部(28~46章)において種族ごとに制度や歴史を記している。…
…1165年に自治権を得て以来,16世紀にはザクセン選帝侯領最大の麻織物の町として栄えた。16世紀半ば近代鉱物学・冶金学の祖G.アグリコラが市長をつとめた。一時衰退したが18世紀末以降発展し工業都市となる。…
…古代ギリシア人はすでに銀山で鉱毒や水銀中毒があることを観察していた。近代文明の夜明けを告げる鉱山業がヨーロッパに勃興したときG.アグリコラは鉱山学の書物《デ・レ・メタリカ》(1556)第6巻で,鉱夫特有の疾病について記述している。〈空中に飛散する塵がおこす肺の病気〉とは,おそらく喘息をともなう塵肺の一種であり,また〈黒い有毒物によって腫瘍となり骨の髄まで冒す病気〉とは,19世紀になって肺癌であることが明らかにされた。…
…ドイツの鉱山技術者・医者で,〈鉱山学の父〉とも呼ばれるG.アグリコラが著した採鉱・冶金技術書。デ・レ・メタリカとは〈金属について〉という意味で,原書はラテン語で書かれ,全12巻から成る。…
…粗放的牧羊が行われるが,レクリエーション地帯として夏には観光客が多い。84年にローマのアグリコラ総督がピクト人を破った戦場としてタキトゥスが伝えるグラウピウス山Mons Graupiusはこの山脈中にある。【長谷川 孝治】。…
…しかし有史時代はローマ帝政期から始まった。80年にブリタニア総督アグリコラがカレドニアに侵入し,84年ごろケルト諸部族は撃破された。2世紀にはケルト人の南下を抑えるために防壁が造られたが,4世紀末までにローマ軍の圧力は消滅した。…
…現在はカレリアのクオピオKuopioの主教が大主教を務めている。
【文化】
[文学]
フィンランド文学の創始者はトゥルクの主教M.アグリコラで,彼の著した《ABC読本》(1543)はフィンランド語で書かれた最初の文献である。また彼の訳した《新約聖書》(1548)はフィンランド文語形成の基盤をつくった。…
…しかし,イタリアでの枯渇化とは逆に,アルプス以北の国々に波及した人文主義は祥運を続け,折から吹き荒れる宗教改革の嵐と交錯しながら,活動を拡大する。オランダのアグリコラRodolphus Agricola(1443‐85),ドイツのメランヒトン,フランスのビュデ,イギリスのT.モアらがその代表であるが,なかでもエラスムスの存在は大きい。彼によって人文主義はいっそうキリスト教的基盤へと引き寄せられ,自由・寛容の精神として近代に継承されていった。…
…しかし,イタリアでの枯渇化とは逆に,アルプス以北の国々に波及した人文主義は祥運を続け,折から吹き荒れる宗教改革の嵐と交錯しながら,活動を拡大する。オランダのアグリコラRodolphus Agricola(1443‐85),ドイツのメランヒトン,フランスのビュデ,イギリスのT.モアらがその代表であるが,なかでもエラスムスの存在は大きい。彼によって人文主義はいっそうキリスト教的基盤へと引き寄せられ,自由・寛容の精神として近代に継承されていった。…
※「アグリコラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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