アグリコラ(読み)あぐりこら(英語表記)Gnaeus Julius Agricola

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アグリコラ」の意味・わかりやすい解説

アグリコラ(Georgius Agricola)
あぐりこら
Georgius Agricola
(1494―1555)

ドイツ、ルネサンス期の鉱山学者。金属についての最初の技術書『デ・レ・メタリカ』De Re Metallicaの著者として有名である。本名をバウアーGeorg Bauer(「農夫」という意味)といった。3月24日にザクセングラウハウに生まれ、ツビカウのラテン語学校に学び、ライプツィヒ大学でギリシア語を学んだ。

 1518年ギリシア語教師としてツビカウに招かれ、翌1519年25歳の若さで新設の学校の校長に選ばれた。このころ名前をラテン名のアグリコラに変え、ラテン語の文法に関する著作を刊行した。のちライプツィヒ大学に招かれて講師となった。30歳のとき恩師モゼラヌスPet. Mosellanus(1493―1524)が亡くなり、これを機にイタリアの大学に留学し、おもに医学を学んだ。

 イタリアからの帰途、1527~1531年、ボヘミアの鉱山町ヨアヒムスタールの市医となり、かたわら鉱山学、岩石学を研究した。1531~1535年にケムニッツに移住して市医兼修史官として研究を続け、1546年に同市の市長に任命された。当時ケムニッツにも宗教改革運動がおこり、新教徒たちとの激しい口論のさなか、卒中で倒れ、1555年11月21日死去したと伝えられる。

 鉱山冶金(やきん)に関するおもな著述は次のとおりである。『ベルマヌス』Bermannus sive de re Metallica(1530)、『採鉱物の性質について』De Natura Fossilium(1546)、『地下物の生成と原因について』De Ortu et Causis Subterranorum(1546)、『古い冶金と新しい冶金について』De Veteribus et Novis Metallis(1546)、『鉱山学用語解説』Rerum Metallicarum Interpretatio(1546)、『金属の価値と貨幣について』De Precio Metallorum et Monetis(1550)、『デ・レ・メタリカ』(1556)。

山崎俊雄


アグリコラ(Gnaeus Julius Agricola)
あぐりこら
Gnaeus Julius Agricola
(40―93)

古代ローマの元老院議員。フォルム・ユリイForm Julii(今日のフレジュス)に生まれ、ウェスパシアヌス帝のもとでコンスルまで昇進(77)したのち、総督としてブリタニア統治(77/78~84)。都市文明を導入して先住民の馴致(じゅんち)、隷属化を進める一方、北部への征服地拡大でも一時代を画した。その軍事行動は当初スコットランドを流れるフォース川以南に限られていたが、83年からはカレドニア高地地方侵略を開始。各地に基地を設け、カルガクスCalgacus指揮下の諸種族の抵抗を排してインバネス付近に達した。ローマ艦隊による初のブリテン島周航も彼の時代といわれる。ローマ帰還後、元老院議員、高官の処刑相次ぐドミティアヌス帝晩年の恐怖政治下、93年9月23日に病没した。女婿タキトゥス著の伝記がある。

[栗田伸子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アグリコラ」の意味・わかりやすい解説

アグリコラ
Agricola, Georgius

[生]1494.3.24. ザクセン
[没]1555.11.21. ケムニッツ
特に鉱物学,冶金学の研究で知られるドイツの人文学者,医者。ドイツ名 Georg Bauer。ライプチヒ大学で古典,哲学,文献学を学んだのち,ラテン語,ギリシア語の教師をしていたが (1518~22) ,その後大学に戻り医学の勉強を始めた。しかし神学論争で荒廃した大学に失望,1523年にイタリアへ旅立ち,ボローニャ,パドバベネチアを転々として医学,自然哲学を学んだ。 26年にザクセンに戻り,当時ヨーロッパで最も豊かな鉱脈をかかえる鉱山都市ヨアヒムシュタールの町医をつとめ (27~33) ,この期間に,おもに薬物学的関心から鉱山や精錬所に足を運び,そこでさまざまの知見を得た。 33年ケムニッツの町医,46年市長となった。死後刊行された主著『デ・レ・メタリカ』をはじめとするいくつかの著作において,鉱山運営,排水や換気を含めた採鉱技術,試金法,選鉱,精錬技術などの問題を論じているが,とりわけ幾何学的形態による鉱物分類法の提唱は彼を鉱物学の父と呼ぶにふさわしい業績である。また単純物質と化合物の区別をしたのも彼が最初であろうといわれている。さらに鉱脈の生成に関する地質学的考察は,一般に河川の浸食作用,山岳の形成の問題にまで及び,鋭い観察に基づいた広範な知見は,みごとに近代科学の経験的伝統の起源を画したものといえよう。

アグリコラ
Agricola, Johann

[生]1494.4.20. アイスレーベン
[没]1566.9.22. ベルリン
ドイツ人のルター派の宗教改革者。福音至上律法無用論の唱道者。本名 Johann Schneider(Schnitter)。フランクフルトへのルター主義の導入に力をかした (1525) 。アイスレーベンの説教師,学校教師となり,罪の悔悟は福者の愛からのみ生じるのであって,律法によるのではないとして,ルターとも論争。ブランデンブルク選帝侯の宮廷牧師としてベルリンに移り (1540) ,総監督となる。アウクスブルクの暫定取決め (1548) の起草者の一人。不朽の業績として高地ドイツ語の諺の最初の収集がある (1528,1529,1548出版) 。

アグリコラ
Agricola, Gnaeus Julius

[生]40.6.13. ガリア・ナルボネンシス
[没]93.8.23.
古代ローマの将軍。 64年アシアの財務官,77年執政官 (コンスル ) などを歴任。 78年以来長期にわたってブリタニア総督に就任。その間前後3回の遠征によって今日のウェールズとイングランド北部の征服を完了。さらにスコットランドに前進し,ハイランド地帯にまで達した。またブリテン島を周航,探検した。内政ではブリタニア南部のローマ化と自治都市の建設を促進。 84年帰還命令を受け引退した。彼の生涯は娘婿の歴史家タキツスによって記された。

アグリコラ
Agricola, Rodolphus

[生]1443/1444. フロニンゲン,バフロ
[没]1485.10.27. ハイデルベルク
オランダの人文主義者。本名 Roelof Huysman。北ヨーロッパのルネサンス精神の代表的人物。ハイデルベルクで古典文学を講じる (1484) 。主著"De inventione dialectica" (79) ,"De formando studio" (84) 。知的完成と肉体的発展とによる個人の自由と完全な人格の陶冶を強調し,エラスムスや他の 16世紀の思想家に大きな影響を与えた。

アグリコラ
Agricola, Martin

[生]1486.1.6. シュビーブス
[没]1556.6.10. マクデブルク
ドイツの音楽理論家。本名は Sohrあるいは Soreという。独学で音楽を学び,マクデブルクでプロテスタントの学校創立に力を注ぎ,1524年頃から没するまでそこで教師をつとめた。楽器とその奏法,記譜法に通じ,多くの著書が,友人でもあった G.ラウによって出版された。

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