熊野堂城跡(読み)くまのどうじようあと

日本歴史地名大系 「熊野堂城跡」の解説

熊野堂城跡
くまのどうじようあと

[現在地名]相馬市中野 堂ノ前・清水

宇多うだ川南岸、歓喜寺かんぎじ山と通称される独立小丘にある城跡。「奥相志」によると、文治年中(一一八五―九〇)紀伊藤代ふじしろ(現和歌山県海南市)の住人鈴木四郎穂積重原が熊野神祠を建てたといわれ、山頭にあった社殿は熊野堂と称された。建武三年(一三三六)三月一七日の相馬光胤軍忠状(相馬文書)に「宇多庄熊野堂楯築」とみえ、南朝方の白川上野入道(結城宗広)の家人らが築いた当城を、同月一六日に北朝方の相馬光胤の軍勢が攻撃しているが、城は熊野神祠の社地を含む地域を城塞に転用したものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報