改訂新版 世界大百科事典 「相馬氏」の意味・わかりやすい解説
相馬氏 (そうまうじ)
中・近世,下総・陸奥の武家。桓武平氏の流れをくみ,平将門の後裔と伝えられるが,直接の祖は千葉氏の祖常胤(つねたね)の次男師常(もろつね)。千葉六党の一つ。師常は下総国相馬郡を領して相馬氏を称したが,1189年(文治5)の奥州平泉討伐の功によって陸奥国行方(なめかた)郡を与えられたという。その後,胤村の五男師胤が行方郡の所領を譲られ,その子重胤が1323年(元亨3)に一族とともに行方郡に下向して奥州相馬氏をおこした。重胤は行方郡小高(おだか)に居館を構え,胤村の次男胤顕の系統をひく岡田氏や同じく胤村の八男通胤の系統をひく大悲山氏などの一族とともに,奥州の一画に確固とした地歩を築いていった。南北朝内乱では重胤をはじめとする相馬氏一族は足利尊氏に従って北朝に属し,重胤は36年(延元1・建武3)鎌倉で討死した。以後,奥州相馬氏の本宗家は親胤-光胤-胤頼と継承され,宇津峯・霊山(りようぜん)などに拠る北畠顕信らの南朝勢力と奥州各地で戦った。こうした内乱の過程で惣領制的体制が崩れ,相馬氏においても嫡子単独相続制への転換がみられるようになる。室町時代になると,鎌倉公方足利満兼,持氏が南奥州の支配体制を強化しようとするのに対し,1410年(応永17)相馬氏は標葉(しねは),楢葉(ならは),諸根(もろね),好島(よしま),白土,岩城などの国人と〈五郡一揆〉を結び,稲村御所足利満貞を擁してそれに対抗しようとした。その後,相馬氏は南奥州の支配をめぐって近隣の豪族・国人たちとしばしば争ったが,とくに1540年(天文9)以降は伊達氏との間で激しい抗争を展開した。90年(天正18)義胤は豊臣秀吉の小田原北条氏攻略に参陣した。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦では徳川家康に義胤の去就が疑われたが,危うく改易をまぬかれた。11年宇多郡中村に城を築いて城下を移し,以後は代々相馬中村藩6万石の藩主となる。明治維新後,子爵を授けられた。なお,胤村の長子で重胤の伯父にあたる胤氏の系統は,下総相馬氏として下総の本領を継承し,江戸時代には5000石を領する旗本となった。
執筆者:田代 脩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報