日本歴史地名大系 「狩宿関所跡」の解説 狩宿関所跡かりやどせきしよあと 群馬県:吾妻郡長野原町狩宿村狩宿関所跡[現在地名]長野原町応桑東西に走る大戸(おおど)道(信州道)と、中山道沓掛(くつかけ)宿(現長野県北佐久郡軽井沢町)から浅間山東麓を経て北に進む狩宿通草津(くさつ)道が交わる標高約九五〇メートルの高原に置かれ、中山道の脇往還を固めた。幕府の関東北辺の押えとして、寛文二年(一六六二)猿(さる)ヶ京(きよう)関所(現利根郡新治村)に準じて大笹(おおざさ)関所(現嬬恋村)とともに認可されたというが(文化一〇年「狩宿関所一件帳」一場文書)、寛文頃の沼田藩年寄書状(鎌原文書)に「苅宿村之儀御自分之御関所」とあるように、以前から真田氏の私関として存在したと考えられる。天和元年(一六八一)郷村品々記録(小林文書)に狩宿番所として沼田藩士鎌原縫殿家来湯本・岡部が記され、格の低い番所の扱いである。同年の真田氏改易後は幕府代官支配になり、浪人中の旧沼田藩士一場・片山・信沢・大塩(宝永七年より栃原に代わる)の四人を起用した(同二年「大笹・狩宿関所番人召抱達」鎌原文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by