狩宿村(読み)かりやどむら

日本歴史地名大系 「狩宿村」の解説

狩宿村
かりやどむら

[現在地名]長野原町応桑おうくわ北軽井沢きたかるいざわ

浅間山北麓の広大な高原で、村のほぼ中央を吾妻川の支流くま川が北流する。東は浅間隠あさまかくし山に続く尾根で限られ、北は与喜屋よきや村・古森ふるもり村、西北は小宿こやど村。南から西の大部分が当村など山付六ヵ村の広大な南木なぎ山入会地に接している。村の中心部新田しんでんや狩宿・滝原たきばら熊川くまがわなどに集落がある。東方須賀尾すがお(現吾妻町)から万騎まんき峠越で信州に向かう大戸おおど(信州道)と、南北に通る草津くさつ道が交差する。「吾妻鏡」建久四年(一一九三)三月二一日条に「信濃国三原等狩倉」とみえる「三原」を当村から南部一帯とする説があり、狩宿の地名は源頼朝が浅間山麓での狩に際し宿としたことにちなみ、御所平ごしよだいらは頼朝の本陣が置かれたことから名付けられた地名と伝える。「加沢記」によると、天正一〇年(一五八二)の武田家滅亡前夜、真田家の人質である昌幸の母や信幸が信州上田へ帰還を急ぎ、艱難の末「何卒上州へ打越三原通りに引取可との」「沓掛通りに砂塚越をして三原へ」「小浅間山の麓花田坂」の地を通り鎌原かんばら(現嬬恋村)で一泊するが、これらも南の六里ろくりヶ原内の地名である。


狩宿村
かりしゆくむら

[現在地名]引佐町狩宿

神宮寺じんぐうじ川支流の陣座じんざ川沿岸の山村で、南は奥山おくやま村。南西端の富幕とんまく(五六三・二メートル)から北東端の浅間せんげん(五一九メートル)に至る稜線が三河との国境で、間に陣座峠がある。借宿とも記される。永禄二年(一五五九)井伊谷いいのや城主井伊直盛が狩宿山で鷹狩を催したといわれ(峰野家文書)、旗本金指近藤氏も度々猪鹿狩を行っている(「宮田日記」藤原家文書)。なお永禄一一年一二月一三日に徳川家康が陣座峠を通過したが(武徳編年集成)、峠の名は家康が座して休息したことに由来すると伝える。


狩宿村
かりしゆくむら

[現在地名]杵築市狩宿

築城下より国東くにさき半島の南海岸道を進み、守江もりえ湾を抜け、台地上に点在する。南は海に面する。伝説によれば応神天皇が仮の宿を定めたので狩宿村となったとある。安岐あき郷のうち。建武四年(一三三七)六月一日の六郷山本中末寺次第并四至等注文案(永弘文書)横城よこぎ(東光寺)の南の境として「カリ宿」の地名がみえ、永正一七年(一五二〇)二月二〇日の寛職知行充行状(足立悦雄文書)に「末宗名之内狩宿かなくそはら一段卅之下地遣候」とみえる。


狩宿村
かりやどむら

[現在地名]富士宮市狩宿

上条かみじよう村の北、潤井うるい川上流域富士山西麓の丘陵地に立地する。西境のしば川は深い渓谷を南流している。「吾妻鏡」建久四年(一一九三)五月一五日条に源頼朝が富士の「藍沢御狩」の際に、「富士野御旅館」として五間の仮屋を建てたとあり、当地はこの仮屋があったことに由来する地名という(駿河志料)。富士野御旅館の遺跡は宝暦年間(一七五一―六四)まで存在していたという(富士宮市史)。天文一二年(一五四三)九月六日の今川義元朱印状(井出文書)によれば、義元は井出右京亮に「富士北山之内」の「かり宿名」の名主職を安堵している。永禄四年(一五六一)九月二六日今川氏真も井出田右衛門尉に「借宿名」の名主職を安堵している(「今川氏真朱印状」同文書)


狩宿村
かりじゆくむら

[現在地名]尾張旭市狩宿町

西は瀬戸川せとがわ村、北はいま(現瀬戸市)の各村と接し瀬戸川沿いにある。寛文一一年(一六七一)の家数一三、男三九・女二六(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は七町七反一畝、畑は一町四反七畝余。村は北島中島南島に区分されている。

現在観音堂のある所が狩宿城跡であるという。背後(北)に深い堀が残り水をたたえている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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