日本歴史地名大系 「猿ヶ俣村」の解説 猿ヶ俣村さるがまたむら 東京都:葛飾区猿ヶ俣村[現在地名]葛飾区水元(みずもと)一―二丁目・同四―五丁目・東水元(ひがしみずもと)六丁目・西水元(にしみずもと)二―六丁目・水元公園(みずもとこうえん)上小合(かみこあい)村の西に位置し、南は飯塚(いいづか)村、西は中川を隔て埼玉郡大瀬(おおぜ)村(現埼玉県八潮市)。猿ヶ又村(元禄郷帳など)とも記された。中世は葛西(かさい)御厨のうち。同御厨は初め葛西猿俣御厨と称し、当地は御厨の中心地であった。御巫清直影写本「神鳳鈔」に下総国「内宮葛西猿俣御厨 百八十町 新御領在」と記される。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)には約四〇の郷村名が記載されており、当地はその冒頭に記され、小鮎・金町(かなまち)・飯塚とともに香取社宝殿造営役所と注記されている。猿俣以下の四郷村と曲金(まがりがね)以下の六郷村の合計田数は一八〇余町でこれは「神鳳鈔」に記載される田数とほぼ一致する。御厨が成立した当初はこれらの郷村から構成され、葛西猿俣御厨として伊勢神宮(内宮)に寄進された。その後葛西御厨となり、前掲応永五年の田数注文写には「猿俣 十六町三段三百分(歩) 公田二町九反大」とみえる。また年月日未詳の葛西御厨入部注文写および葛西御厨田数注文写(ともに鏑矢記)には、「猿俣 廿一町二段大」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by