出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸時代屈指の治水家。紀伊国(和歌山県)那賀(なが)郡溝口村に生まれる。名は為永(ためなが)。紀州藩士、のち徳川吉宗(よしむね)の将軍就任後幕臣となる。1722年(享保7)、幕府の勘定所に召され、25年勘定吟味役格、31年勘定吟味役、35年美濃(みの)国(岐阜県)郡代兼任。37年(元文2)役を辞し寄合(よりあい)となる。吉宗に重用され、享保(きょうほう)の改革(1716~45)において、治水、農業開発に敏腕を発揮、河川を中心とする土木技術に多くの新機軸を開発し、紀州流の開祖となった。とくに利根(とね)川中流部から取水の見沼代(みぬまだい)用水(埼玉県)60キロメートルは1728年(享保13)に完成、武蔵(むさし)国の農業開発、水運に至大な貢献をした代表的事業である。木曽(きそ)川三川分流の宝暦(ほうれき)治水(1754)も彼の設計である。
[高橋 裕]
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…71年(寛文11)には江戸町人の請負で干拓工事が着手され,約300haの耕地を得たが,数回にわたる洪水で破壊された。1730年(享保15)には勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永の建議などにより,沼中央に横堤を築いて上下に分断し,下沼を干拓して180haの耕地を得,その後の検地によりさらに45haの増加をみた。だが頻繁な洪水により安定せず,1785年(天明5)には老中田沼意次の下で幕府の手により大規模な干拓工事が実施されたが,利根川大洪水により諸施設が破壊され,同時に行われていた印旛沼干拓工事とともに中断された。…
…江戸幕府は享保改革の一政策として,1722年(享保7)に日本橋に高札を掲げ新田の開発を奨励し,町奉行大岡忠相(ただすけ)に武蔵野の開発を命じ,勘定奉行筧正鋪(かけいまさはる)に新田方掛を新設させた。新田方は翌年には勘定組頭2名と勘定5名が発令され,その中に紀州から呼ばれた井沢弥惣兵衛為永がいた。井沢らはおもに湖沼の干拓に当たったことで知られ,武蔵の見沼,下総の手賀沼や飯沼,越後の紫雲寺潟などの干拓事業が有名である。…
…堤方役所は世襲の地役人12名からなり,交代寄合美濃衆高木三家の家臣の川通掛とともに木曾三川(木曾川,長良川,揖斐川)の治水にあたった。歴代には岡田将監善同(1613‐31),岡田将監善政(1631‐60)をはじめ,辻六郎左衛門守参(もりみつ)(1699‐1718)や井沢弥惣兵衛為永(1735‐37)がいる。 美濃郡代に関する文書,記録は大部分が散逸したが,岐阜県歴史資料館,名古屋市蓬左文庫に一部が保存され,岐阜県立図書館《郷土資料目録》,蓬左文庫《蓬左文庫古文書古絵図目録》に目録化されている。…
※「井沢弥惣兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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