遍照院(読み)へんじよういん

日本歴史地名大系 「遍照院」の解説

遍照院
へんじよういん

[現在地名]知立市弘法町 弘法山

国道二三号東側の弘法山こうぼうやまとよばれる地にある。真言宗豊山派、弘法山と号する。本尊見返弘法大師。正徳三年(一七一三)京都仁和にんな寺直末となり、明治三六年(一九〇三)豊山派に転じ、奈良長谷はせ(現桜井市)末寺となる。弘仁一三年(八二二)三弘法第一番の根本霊場として創立され、初め田中山遍照院大沢だいたく寺といい、上重原かみしげはら家下やしたにあったが、延宝元年(一六七三)法印栄隆のとき刈谷藩主稲垣重昭の崇敬を得て土地の寄進を受け、現在地に移転した。元の地名を元遍照もとへんじようといい、赤目樫の旧跡と一堂宇が遺存する。


遍照院
へんじよういん

[現在地名]菊間町浜 西新開

法仏山日輪寺と号し、真言宗豊山派。本尊薬師如来。応永六年(一三九九)讃岐国萩原はぎわら寺住職真恵が中興したといわれる。畑寺はたでら(現玉川町)光林こうりん寺の「世代記」に「一、真恵上人、宝徳六月十八日遷化、春秋八十五歳、讃州地蔵院入寂、風早光徳院、菊万遍照院各々一代也」とある。当初、遍照院は菊万きくまはま村の宮本みやもとの地にあったが、天正一六年(一五八八)一月一日に焼失した。その後、三代の間は延喜えんぎ(現今治市)乗禅寺で寺務をとっていたが、寛文元年(一六六一)一二世徳温の代に浜村地蔵院に小堂を建てて本堂を移した。


遍照院
へんじよういん

[現在地名]行田市駒形一丁目

江戸時代の下忍しもおし村の北部、忍城の南に位置する。真言宗智山派、医王山常福じようふく寺梅本坊と号し、本尊は大日如来。開山の慶儀は弘治年中(一五五五―五八)の僧。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳では「大本寺鶏足寺」とあるから、古くは小俣鶏足おまたけいそく(現栃木県足利市)とかかわりがあったらしい。寛政七年(一七九五)の新義真言宗本末帳では本寺が京都御室仁和寺となっている。


遍照院
へんじよういん

[現在地名]新宮市千穂二丁目

明神みようじん山の南麓にある。慈雲山と号し、真言宗御室派。本尊は如意輪観音創建年代は明らかでないが、古くは行住院と号し、のち松薗しようえん寺、次いで加納かのう院と改称した。江戸時代初期頃の新宮古図(新宮木材協同組合蔵)によると、当時加納院は新宮町うま町の妙体みようたい(現浄土宗名体寺)の南隣にあった。慶長年中(一五九六―一六一五)新宮城主浅野忠吉の祈願寺として再興され、浅野氏が安芸に移って後は水野氏の祈願寺となった。新宮藩御勘定方旧記(和歌山県史)に「御祈祷願所之儀、最早ハ寛永二年より同廿年迄ハ加納院相勤御祈念料として御米四石弐斗被下置候」とみえ、水野氏より祈祷料が下付されていた。


遍照院
へんじよういん

[現在地名]上尾市上町一丁目

旧中山道東側にある。日乗山秀善しゆうぜん寺と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王。「風土記稿」によれば開山阿順は応永九年(一四〇二)二月二八日没と伝え、往昔は化政期当時の光勝こうしよう院の地にあったが、上尾宿が立てられたとき現在地に引移ったという。光勝院は江戸期には当院塔頭で遍照院領のうちにあり、天正年中(一五七三―九二)の創建とされる(風土記稿)。慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗連判留書案(醍醐寺文書)に上尾遍照院の名がみえる。慶安二年(一六四九)朱印地二〇石を与えられた(風土記稿)


遍照院
へんじよういん

[現在地名]倉敷市西阿知町

鴨方かもがた往来北側に位置する。真言宗御室派。神遊山神宮寺遍照院と号する。本尊は十一面観音。寺伝では花山天皇の勅願によって寛和元年(九八五)知空が開基という。永正一四年(一五一七)六月の某(庄か)元資の五ヵ条からなる禁制(黄薇古簡集)が「西阿知遍照院」に下されている。延宝二年(一六七四)岡山藩主池田綱政より西阿知にしあち村のうちで五〇石を寄進される。正徳四年(一七一四)頃に鎮守十二社権現と寺社境争いがあった(以上「撮要録」)。その後は除地分三六石となっている(天保一一年「西原村組手鑑」江木文書など)


遍照院
へんじよういん

[現在地名]大矢野町上

新田しんでんの丘の上にある。古城山と号し曹洞宗。本尊釈迦如来。正保二年(一六四五)創建。鈴木正三を開基、中華珪法を開山とする。慶安元年(一六四八)寺領一三石を与えられ、うち三石は内野河内うちのかわち(現松島町)金性きんしよう寺分とした(島鏡)


遍照院
へんじよういん

[現在地名]久留米市寺町

寺町てらまち通の北西部にある。光明山と号し、真言宗大覚寺派。本尊は聖観音(久留米市誌)。寛文十年寺社開基では阿弥陀如来木像とする。妙心寺派の漢室が元和八年(一六二二)に開いた金剛こんごう寺を前身とするが、三世三源が立去って無住となり、明暦二年(一六五六)城内の祇園寺四世快応が願出て遍照院とし、祇園寺歴代の墳墓の地とした(寛文十年寺社開基)。ほかに境内に高山彦九郎墓(国指定史跡)、長州奇兵隊の幹部大楽源太郎ら四名の墓(耿介四士之墓)、松村雄之進ら明治四年(一八七一)事件関係者の墓などがある。


遍照院
へんじよういん

[現在地名]東区泉二丁目

鍋屋なべや町裏(七ヶ寺門前)の南側、江戸時代には高岳こうがく院の東北部に隣接していた。摂取山と号し、浄土宗鎮西派。本尊は阿弥陀如来。元和七年(一六二一)藩祖徳川義直の側近青山春勝が義直にこの地を請い、当寺を建立した。念宗を開山とし、初め念宗院と号したが、延宝八年(一六八〇)春勝の法名遍照院殿光誉摂取をとり、現在の山号・寺号に改めた(府志、尾張志、金鱗九十九之塵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「遍照院」の解説

遍照院

岡山県倉敷市にある真言宗御室派の寺院正称、神遊山神宮寺遍照院。本尊は十一面観世音菩薩。1416年に建てられた三重塔は国の重要文化財に指定されている。

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