王玄策
おうげんさく
生没年不詳。中国、唐初のインドへの使者。北インドを統一した戒日王(ハルシャバルダナ)の遣唐使バラモンの帰国を送って643~646年にマガダ国などへ使いし、ついで自ら正使となって647~648年北インドへ赴いた。ところが戒日王はすでに死に、たまたま簒奪者(さんだつしゃ)阿羅那順(あらなじゅん)が出兵して入使を拒み貢納貿易品を略奪したので、彼は逃れ、チベット(吐蕃(とばん))とネパールから数千の援兵を請い、ついに阿羅那順を打ち破り、これを捕虜として唐の都に送り、功により朝散大夫(ちょうさんたいふ)に登用された。のち657~661年に三度使者となって中インド各地を巡った。
彼は仏足石など仏教文物の将来を通じても、中国、インド両者の文化交流に大いに貢献した。最後に帰国してから数年間に撰述(せんじゅつ)したとみられる『中天竺(てんじく)行記』(別名『王玄策行記』など)10巻は、今日『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』などに20余条の逸文を残すにすぎないが、玄奘(げんじょう)の『大唐西域記(だいとうさいいきき)』を補う貴重な資料である。
[池田 温]
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王玄策 (おうげんさく)
Wáng Xuán cè
中国,唐の太宗・高宗朝の北インド使節。生没年不詳。643-646,647-648,658-659年の,3度にわたる行使について記した《中天竺行記》10巻,《中天竺図》3巻は,高宗勅撰《西域図志》60巻の基礎資料となった。図志編纂後,行記と図は散逸したが,図志も失われた今日では,《釈迦方志》《法苑珠林(ほうおんじゆりん)》中に大量に残存する行記の逸文が,当時のチベット,ネパール,北インドを研究するうえで重要な史料となっている。
執筆者:勝村 哲也
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王玄策
おうげんさく
Wang Xuan-ce; Wang Hsüan-ts`ê
中国,唐朝初期のインドへの使者。貞観 17 (643) ~20年に戒日王 (ハルシャバルダナ ) の遣唐使の帰国を送る副使としてマガダ国などへ派遣され,次いで同 21~22年にみずから正使となって北インドにおもむく。たまたまマガダ王シーラーディティヤが死んで王位簒奪者阿羅那順が出兵して入使を拒んだので,彼は吐蕃 (とばん) とネパールの援兵を請い,阿羅那順を捕えて唐都に送り,朝散大夫に任じられた。のち顕慶2 (657) ~竜朔1 (661) 年また使者となり,中インド各地を訪れ,帰国後『中天竺行記』 (別名『王玄策行記』) を撰述。
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王 玄策
おうげんさく
生没年不詳
インドへ3度派遣された唐の使者
643年にハルシャ=ヴァルダナ王の使者を送ってマガダ国へ行き,その後,647・658年と2回インドに赴いた。著書『中天竺行記』が断片的に残っている。
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世界大百科事典(旧版)内の王玄策の言及
【仏足石】より
…その存在はスリランカ,ミャンマー,タイなどの南方(小乗)仏教圏においても,またネパール,中国,朝鮮,日本などの大乗仏教圏においても,報告されている。日本では,奈良の薬師寺に現存する仏足石が最古のもので,その銘によると,753年(天平勝宝5)に造られたもので,その原型は唐の王玄策がインドの鹿野苑(ろくやおん)にあった仏足跡を写して長安に持ち帰ったものをさらに模写したものであるという。この銘とともに刻まれている歌は,〈[仏足石歌]〉として知られている。…
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