ハルシャバルダナ(読み)はるしゃばるだな(英語表記)Harsa Vardhana

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハルシャバルダナ」の意味・わかりやすい解説

ハルシャバルダナ
はるしゃばるだな
Harsa Vardhana
(590ころ―647)

古代インドハルシャ朝の王(在位606~647)。ハルシャともよばれ、「バルダナ」は彼の父と兄の名にもつけられている。シーラーディーティヤŚīlādityaと号し、中国文献では戒日王(かいじつおう)と訳された。この王朝は、グプタ朝衰退後、西北インドのスターナビーシュバラ(今日のターネーサル)に興ったが、彼の父プラバーカラバルダナのときに勢力を拡大して、ガンジス流域に進出した。兄ラージャバルダナはさらに東進して、ベンガル王シャーシャーンカと戦って敗死した。そこで606年彼は若年にして王位につき、アッサムの王と同盟してシャーシャーンカを破って、ガンジス流域の領土を確保した。ついで西方グジャラートを征服して、この地方のマイトラカ朝を従属せしめ、さらに西デカンにも進出を試みたが、チャールキヤ朝プラケーシン2世によって阻まれた。その後は北インドの支配に努め、40年の治世の間、領域は繁栄した。しかし、彼の死後王国はたちまち崩壊して、諸王朝が分立割拠するところとなった。

 彼は文芸の才に富み、彼の作としては『ラトナーバリー姫』『プリヤダルシカー姫』『竜王の喜び』の三つの戯曲が伝えられている。その宮廷には詩人が集められ、宮廷詩人のバーナは『ハルシャ行跡(チヤリタ)』をつくって、彼が北インドの統一支配を達成するまでの話を美麗な文章で物語っている。また中国の僧玄奘(げんじょう)は彼の治世の間にインドに旅行し、彼の領域がよく治まっているありさまを伝え、都カナウジで彼から厚遇を受けたことを記している。なお、王玄策(おうげんさく)は唐の使節として三度、彼の宮廷を訪れたが、彼の死後チベットと同盟して王国の再興を図ったといわれる。

[山崎利男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハルシャバルダナ」の意味・わかりやすい解説

ハルシャバルダナ
Harṣavardhana

[生]?
[没]647
インド古代,ガンジス川上流域のカナウジ (カンヤクブジャ) に都した王 (在位 606~647) 。シーラーディティヤ (戒日王) と号した。父はプシュヤブーティ朝のプラバーカラバルダナ王。父を継いだ兄の死で王位につき,四周に領土を広げ,グプタ朝の衰亡後乱れていた北インドを再び統一した。しかし南方ではチャールキヤ朝プラケーシン2世に敗れ,ナルマダ川以北の地を支配するにとどまった。初めヒンドゥー教のシバ派教徒であったが仏教信者となり,仏塔の建立や5年に1度の大法会を行なった。当時のインドについては,中国僧玄奘の『大唐西域記』に詳しい。王は中国 (唐の太宗) に使節を送り,中国からは王玄策が使節として来朝した。しかし彼の死後,内紛によって王国は崩壊した。文芸を保護したことでも知られ,みずからも3編のサンスクリット語戯曲『プリヤダルシカー』 Priyadarśikā,『ラトナーバリー』 Ratnāvalī,『ナーガーナンダ (竜王の喜び) 』 Nāgānandaを残した。

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