吐蕃(読み)トバン(英語表記)Tǔ fān

デジタル大辞泉 「吐蕃」の意味・読み・例文・類語

とばん【吐蕃】

7世紀初め、チベットに成立した王国の中国名。ソンツェン=ガンボが建国。しばしばと戦ったが、9世紀初め和平。843年に内紛により分裂し、崩壊。チベット文字が制定され、仏教が国教とされた。また、中国史料でチベット地方の称。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「吐蕃」の意味・読み・例文・類語

とばん【吐蕃】

七世紀初頭にソンツェン=ガンポがチベット諸族を統一して確立した王朝に対する中国側の呼称。王都はラサ。はじめ唐と結んで勢威をふるい、東トルキスタン覇権を握ったが、のち対立抗争を続け、九世紀中頃、唐に帰服した。中国やインドの文化を受容して、チベット文字を創定し仏教を移入するなど、チベットの歴史に大きな足跡を残した。〔新唐書‐吐蕃伝上〕

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「吐蕃」の意味・わかりやすい解説

吐蕃 (とばん)
Tǔ fān

チベット人が初めて建てた王国に漢文史料が与えた名称。〈チベット〉の称と同様にタングート(党項)等の〈拓跋(たくばつ)〉氏に由来するという説から,王家が他の一族より南部に拠ったので,その部族名〈ピャphyva(不夜)〉に,〈南〉を意味する〈トlho〉を冠したlho phyvaの称ができて〈吐発〉と写され,蔑視的な立場から,さらに〈吐蕃〉とされたとする説まである。

 チベット人は,建国の王ソンツェン(ソンツェン・ガンポ)以前ヤルルン地方に23代の王が拠ったと数えるが,漢文史料に伝えるように6代しかなかったらしい。ボン教系史料の確かなものによると,その祖先は女国と通婚していたことが知られる。中央チベットに進出したのはソンツェンの父ルンツェンの時代で,隋の開皇年間(581-600)にこの父子がヤルルンのチンバに拠っていたことが伝えられている。隋が吐谷渾(とよくこん)王の伏允を討ち,伏允が黄河上源地帯に亡命したため,将来に危懼の念を抱いた東女国を含む四川のスムパ族が,吐蕃王家に服属し,その結果,諸部族の離反によって崩壊寸前にあった先王の覇権がよみがえった。これを境にソンツェン王は吐谷渾に接近して彼等から諸制度を学び,620年代に官位12階を制定して,諸氏族をこの階層構造に組み込み,一つの法令体系のもとに支配,所有した。635年(貞観9)に唐が伏允を滅して傀儡(かいらい)政権を立てたとき,正統派の親吐蕃政権を擁立,638年にソンツェン王は松州で唐を制圧し,この吐谷渾を臣属併合した。640年に唐から文成公主を迎えた後十数年は動きを慎みながら,その間に軍事国家体制を整え,ソンツェン王没後の654年(永徽5)に,軍戸,民戸を分けた総動員組織を発動させて唐と開戦し,670年(咸亨1)に傀儡吐谷渾を滅亡させた。以来,服属していた正統吐谷渾に代わって,東西通商路東部の支配に乗り出し,唐と戦い続け,進退を繰り返した。710年には唐朝から,幼い吐蕃王に金城公主を嫁がせ,和平策も講じさせたが,長い効果はなかった。

 安史の乱以後吐蕃は軍事的に優位に立ち,一度は長安にも踏みこんで,ついには河西回廊,西域南道の大部分を含めて霊州と隴山(ろうざん)を結ぶ線の西側を支配するにいたった。同じころの761年ティソン・デツェン王(742-797)は仏教を国教とする方針を立てて唐,ネパールに使者を送り,名僧シャーンタラクシタを呼んでサムイェー大僧院を建立し,教団を発足させた。9世紀初頭には教団指導者が台頭して国政の頂点に立ち,821年(長慶1)と23年に唐,ウイグルとの和平条約をそれぞれ締結した。その後,国をあげて仏教教団を中心にした事業を推進し,《大蔵経》の大部分を訳出したほか,大伽藍の建立を続けたため,国論が分かれ,ランダルマ王(809-842)の殺害された翌843年に王位継承をめぐって王家は南北2朝に分裂し,国境の吐蕃軍も互いに争って潰えた。ヤルルンに拠った南朝も10世紀に入るとその地にとどまりきれず,西チベットのラトゥーやガリに亡命した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吐蕃」の意味・わかりやすい解説

吐蕃
とばん
Tu-fan

7世紀初めに出現したチベット人による最初の統一国家をさす中国側の呼称。 11世紀以後のチベットをさしても用いられる。ソンツェンガンポ王によって国家としての制度が整い,その没後まもなく千戸編成による軍事国家組織が整えられた。まず吐谷渾 (とよくこん) を併合し,その旧権益継承をめぐって唐と対立,戦線を西域,雲南に拡大した。8世紀初めに小康状態を得て,唐の金城公主の降嫁もあった (710) が,まもなく河西回廊地帯,ブルシャ方面に攻撃を再開。安史の乱に乗じて 763年 10月長安を一時占拠,782年唐側からの提議で和平が成り,朱ひの乱平定に協力した。しかし唐側が報酬を渋ったため,再び攻撃を開始し,786年敦煌を落し,北庭をくだした。その頃南詔が離反し,ティソンデツェン王が没した。9世紀に入ると,吐蕃は和平の意向をもちはじめ,821~822年に唐蕃会盟 (→唐蕃会盟碑 ) が成立した。和平成立の背景にあった仏教の発展は主戦派を排仏に走らせ,ティツク・デツェン (→レルパチェン ) 王の没 (841) 後に立ったランダルマ・ウィドムテンは破仏を行なったとされるが刺殺され,その後吐蕃は2派に分れ,一部は西チベットに移住し,そのまま権威を失っていった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吐蕃」の意味・わかりやすい解説

吐蕃
とばん

漢文史料でチベットをさしていう場合に用いられた名称。今日では唐と対立したチベット人の王朝をこの名称でさす場合が多い。吐蕃に対応する原語として「チベット」と共通の語源「拓跋(たくばつ)」をあてる説から、「吐」にlho(南)をあて、チベット支配階級の部族名Phyva、漢字で「不夜」などと写されるものが「蕃」に変えられたとする説まである。

 吐蕃王朝の遠祖は、ネパール北西にあるカイラーサの北辺から4世紀なかばごろに東部チベットのカムに移り、5世紀後半に中央チベット南部のヤルルンに拠(よ)って、1世紀後に中央チベットを掌握し、やがてチベット全土を制覇した。

 6世紀末にたったソンツェンガンポ王は、四川(しせん)のスムパ人を掌握することによってカム地方の離反を食い止め、隋(ずい)に討たれて青海南部に亡命していた吐谷渾と接近して、制度、文物を学び、620年代に官位12階を定めて諸氏族を統合支配し、王国を建てた。638年に唐と戦い、吐谷渾の一部を臣属させ、640年に唐から文成公主を迎えて和親した。この王の没後に完成した軍事国家組織を活用して、臣属させた吐谷渾の正統性とその権益の継承を主張し、659年から唐と戦い始め、戦線を南詔から中央アジアまで広げ、8世紀後半以後優位にたった。そのころから仏教を本格的に導入して、しだいに新しい知的エリート、僧の支配を受け、822年には唐と和平条約を結んだ。その後仏教による理想国建設の負担に押しつぶされて843年に支配階級が分裂し、滅んだ。

[山口瑞鳳]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「吐蕃」の意味・わかりやすい解説

吐蕃【とばん】

チベットに対する中国人の古称。7世紀初めから14世紀半ばまで使用。7世紀ソンツェン・ガンポ王がチベットを統一,強大となったが,9世紀半ば分裂,13世紀には元朝は土番等処宣慰司都元帥府を置いて統治を図った。
→関連項目タングートラサランダルマ楼蘭

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「吐蕃」の解説

吐蕃(とばん)
Tuböd

7世紀から9世紀にチベットに栄えた古代王朝。中央チベットのヤルルン渓谷を根拠地として広がった。7世紀にソンツェンガムポ王がチベットを統一して,インド,中国両国の仏教文化を導入し国の基を築いた。ティソンデツェン王の代には軍事大国化し唐と抗争を繰り返したが,9世紀のティツクデツェン王代に至って,唐と吐蕃との間に和平が結ばれ,823年には唐蕃会盟碑が建立された。9世紀後半のダルマ王の2子の時代に王家は東西に分裂し,王朝は崩壊した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「吐蕃」の解説

吐蕃
とばん

唐初期から元末期ごろまでの,中国人によるチベットの呼び名。普通は7〜9世紀のチベットの統一王朝をさす
ソンツェン=ガンポが遊牧民を中心に統一してラサに都を置いた。唐の西進策と衝突してしばしば争い,安史の乱後,長安を占領するなど吐蕃の優勢が続いた。しかしその強大化をおそれる唐とウイグルは同盟し,これにより孤立した吐蕃は,821・822年の唐蕃会盟によって唐と和した。伝来した仏教は,固有の民間信仰と結合してチベット仏教(ラマ教)がうまれ,元朝の帝室に尊崇された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の吐蕃の言及

【青唐】より

…鄯州(ぜんしゆう)ともいった。当時,オルドス南部より以西,黄河上流域にかけてチベット系の諸部族が散在し,宋ではこれらを吐蕃と総称した。宋,西夏,遼の対立抗争に刺激をうけた吐蕃では統一運動がおこり,青唐方面のチベット族(青堂羌(せいどうきよう)ともいった)の領袖らは,西部のおそらくマルユルと思われる地方から吐蕃王朝の末裔である唃厮囉(こくしら)を迎えて基礎固めを行った。…

【チベット】より

…漢文史料で〈氐(てい)〉とか〈羌(きよう)〉と呼ばれていたものが古い時代のチベット系民族であるともされるが,確かではない。隋の時代にその存在が漢土に伝えられ,唐代に〈吐蕃(とばん)〉と呼ばれたのは,このチベット人が建てた最初の統一王国であった。
[吐蕃王国]
 この国はソンツェン・ガンポと呼ばれる王によって七世紀前半に建てられ,隋・唐2代の圧力によって滅亡の危機にあった吐谷渾(とよくこん)を併合し,代わって7世紀後半から東西通商路の東端と南縁の支配に乗り出した。…

【敦煌】より

…玄宗治世の開元・天宝年間(713‐755)の敦煌は,最も華やかな時代を迎えたのであり,莫高窟にも盛唐様式の華麗な浄土窟が数多く造営された。 ところが,755年(天宝14)に安禄山の反乱が起こって唐の支配力が弱まると,河西の通廊地帯には南から吐蕃(とばん)すなわちチベット人が侵入してきた。沙州つまり敦煌は執拗な抵抗をつづけたが,国都の長安にさえ長駆して一時は占領するほどの力量をもった吐蕃の軍事力によって,781年(建中2)には沙州の一角の寿昌県が破られ,787年(貞元3)に至ってついに全面的に降伏した。…

※「吐蕃」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android