コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

吐蕃 とばんTu-fan

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

吐蕃
とばん
Tu-fan

7世紀初めに出現したチベット人による最初の統一国家をさす中国側の呼称。 11世紀以後のチベットをさしても用いられる。ソンツェンガンポ王によって国家としての制度が整い,その没後まもなく千戸編成による軍事国家組織が整えられた。まず吐谷渾 (とよくこん) を併合し,その旧権益の継承をめぐって唐と対立,戦線を西域,雲南に拡大した。8世紀初めに小康状態を得て,唐の金城公主の降嫁もあった (710) が,まもなく河西回廊地帯,ブルシャ方面に攻撃を再開。安史の乱に乗じて 763年 10月長安を一時占拠,782年唐側からの提議で和平が成り,朱ひの乱平定に協力した。しかし唐側が報酬を渋ったため,再び攻撃を開始し,786年敦煌を落し,北庭をくだした。その頃南詔が離反し,ティソンデツェン王が没した。9世紀に入ると,吐蕃は和平の意向をもちはじめ,821~822年に唐蕃会盟 (→唐蕃会盟碑 ) が成立した。和平成立の背景にあった仏教の発展は主戦派を排仏に走らせ,ティツク・デツェン (→レルパチェン ) 王の没 (841) 後に立ったランダルマ・ウィドムテンは破仏を行なったとされるが刺殺され,その後吐蕃は2派に分れ,一部は西チベットに移住し,そのまま権威を失っていった。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

とばん【吐蕃】

7世紀初め、チベットに成立した王国の中国名。ソンツェン=ガンボが建国。しばしばと戦ったが、9世紀初め和平。843年に内紛により分裂し、崩壊。チベット文字が制定され、仏教が国教とされた。また、中国史料でチベット地方の称。

出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

吐蕃【とばん】

チベットに対する中国人の古称。7世紀初めから14世紀半ばまで使用。7世紀ソンツェン・ガンポ王がチベットを統一,強大となったが,9世紀半ば分裂,13世紀には元朝は土番等処宣慰司都元帥府を置いて統治を図った。
→関連項目タングートラサランダルマ楼蘭

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

とばん【吐蕃 Tǔ fān】

チベット人が初めて建てた王国に漢文史料が与えた名称。〈チベット〉の称と同様にタングート(党項)等の〈拓跋(たくばつ)〉氏に由来するという説から,王家が他の一族より南部に拠ったので,その部族名〈ピャphyva(不夜)〉に,〈南〉を意味する〈トlho〉を冠したlho phyvaの称ができて〈吐発〉と写され,蔑視的な立場から,さらに〈吐蕃〉とされたとする説まである。 チベット人は,建国の王ソンツェン(ソンツェン・ガンポ)以前ヤルルン地方に23代の王が拠ったと数えるが,漢文史料に伝えるように6代しかなかったらしい。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

とばん【吐蕃】

七世紀初めから九世紀中頃まで、ラサを都とする今のチベット地方にあった統一王国の、中国での呼び名。唐・インドの文化の影響を受けて栄えたが、のち唐に帰服。宋・元代では単にチベット地方をさしていう。

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

吐蕃
とばん

漢文史料でチベットをさしていう場合に用いられた名称。今日では唐と対立したチベット人の王朝をこの名称でさす場合が多い。吐蕃に対応する原語として「チベット」と共通の語源「拓跋(たくばつ)」をあてる説から、「吐」にlho(南)をあて、チベット支配階級の部族名Phyva、漢字で「不夜」などと写されるものが「蕃」に変えられたとする説まである。
 吐蕃王朝の遠祖は、ネパール北西にあるカイラーサの北辺から4世紀なかばごろに東部チベットのカムに移り、5世紀後半に中央チベット南部のヤルルンに拠(よ)って、1世紀後に中央チベットを掌握し、やがてチベット全土を制覇した。
 6世紀末にたったソンツェンガンポ王は、四川(しせん)のスムパ人を掌握することによってカム地方の離反を食い止め、隋(ずい)に討たれて青海南部に亡命していた吐谷渾と接近して、制度、文物を学び、620年代に官位12階を定めて諸氏族を統合支配し、王国を建てた。638年に唐と戦い、吐谷渾の一部を臣属させ、640年に唐から文成公主を迎えて和親した。この王の没後に完成した軍事国家組織を活用して、臣属させた吐谷渾の正統性とその権益の継承を主張し、659年から唐と戦い始め、戦線を南詔から中央アジアまで広げ、8世紀後半以後優位にたった。そのころから仏教を本格的に導入して、しだいに新しい知的エリート、僧の支配を受け、822年には唐と和平条約を結んだ。その後仏教による理想国建設の負担に押しつぶされて843年に支配階級が分裂し、滅んだ。[山口瑞鳳]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の吐蕃の言及

【青唐】より

…鄯州(ぜんしゆう)ともいった。当時,オルドス南部より以西,黄河上流域にかけてチベット系の諸部族が散在し,宋ではこれらを吐蕃と総称した。宋,西夏,遼の対立抗争に刺激をうけた吐蕃では統一運動がおこり,青唐方面のチベット族(青堂羌(せいどうきよう)ともいった)の領袖らは,西部のおそらくマルユルと思われる地方から吐蕃王朝の末裔である唃厮囉(こくしら)を迎えて基礎固めを行った。…

【チベット】より

…漢文史料で〈氐(てい)〉とか〈羌(きよう)〉と呼ばれていたものが古い時代のチベット系民族であるともされるが,確かではない。隋の時代にその存在が漢土に伝えられ,唐代に〈吐蕃(とばん)〉と呼ばれたのは,このチベット人が建てた最初の統一王国であった。
[吐蕃王国]
 この国はソンツェン・ガンポと呼ばれる王によって七世紀前半に建てられ,隋・唐2代の圧力によって滅亡の危機にあった吐谷渾(とよくこん)を併合し,代わって7世紀後半から東西通商路の東端と南縁の支配に乗り出した。…

【敦煌】より

…玄宗治世の開元・天宝年間(713‐755)の敦煌は,最も華やかな時代を迎えたのであり,莫高窟にも盛唐様式の華麗な浄土窟が数多く造営された。 ところが,755年(天宝14)に安禄山の反乱が起こって唐の支配力が弱まると,河西の通廊地帯には南から吐蕃(とばん)すなわちチベット人が侵入してきた。沙州つまり敦煌は執拗な抵抗をつづけたが,国都の長安にさえ長駆して一時は占領するほどの力量をもった吐蕃の軍事力によって,781年(建中2)には沙州の一角の寿昌県が破られ,787年(貞元3)に至ってついに全面的に降伏した。…

※「吐蕃」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

吐蕃の関連キーワードラサのポタラ宮歴史地区ジャンペラカン兜跋毘沙門天チベット仏教キチュラカンカングリ族チベット史兜跋毘沙門王君ちゃく北庭都護府安西都護府山口瑞鳳安西四鎮青唐王国蘇定方ガンボ牛僧孺裴行倹哥舒翰郭子儀

今日のキーワード

大義

1 人として守るべき道義。国家・君主への忠義、親への孝行など。「大義に殉じる」2 重要な意義。大切な事柄。「自由平等の大義を説く」...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

吐蕃の関連情報