ロシアの作家L・N・トルストイの戯曲。1900年作。『闇(やみ)の力』に続くトルストイ晩年の代表的戯曲。作者の死後の1911年9月、モスクワ芸術座初演。この社会で生きる道は、金権か官界にあやかって私欲を肥やすか、こうした汚濁と断固闘うか、それとも遊びほうけていっさいを忘れるか。繊細な神経の主人公プロターソフは妻リーザへのあらぬ嫉妬(しっと)から第三の道を選び、自らを余計者と規定した。貞淑な妻を志操堅固な友人と再婚させるために、彼は入水(じゅすい)自殺を装って姿をくらます。正教会の教義に準じて帝政ロシアの法律では結婚の解消が至難であった。一子をもうけている彼がそれを可能にするためには、虚偽の離婚理由を陳述して時間をかけねばならなかった。彼は人道的見地から妻を解放するために、自ら籍を抹消する手段を講じ、「生ける屍」の境遇を選ぶ。歳月が流れ、ふとした油断から妻の重婚を種に脅迫者が現れる。重婚には身分と理由を問わずシベリア送りの極刑が適用されていた。彼は妻の重婚裁判に駆けつけ、法廷でピストル自殺することによって、刑の執行を無効にする。日本では1917年(大正6)10月東京・明治座で芸術座第9回公演として島村抱月らの新脚色で初演した。
[法橋和彦]
『北御門二郎訳『生ける屍』(1965・青銅社)』
…国民英学会の夜学で英文学を学んだのち,新派(藤沢浅二郎)の東京俳優学校に入学し,そこで教授をしていた〈新劇の父〉小山内(おさない)薫から近代劇のドラマトゥルギーや演技のリアリズムを学んだが,新劇では生計が立たず,1917年,当時は新派悲劇的作品を粗製していた日活向島撮影所に入り,翌18年,監督第1作《暁》を発表した。次いで,芸術座が舞台にのせて大成功したトルストイの《生ける屍》(1918)を映画化し,まだ〈活動写真〉の域を脱しきれないものではあったが,演出や演技指導には古い新派の型を破ろうとする新鮮な意欲が見られ,カット・バック,移動撮影,逆光線撮影などが効果的に使用されて注目を浴びた。当時の日本映画の革新運動の大部分は,その内実としてはアメリカ映画の模倣やヨーロッパ近代劇の翻案であったが,田中はオリジナルシナリオによる《京屋襟店(えりてん)》(1922)と《髑髏(どくろ)の舞》(1923)で,日本人の生活を日本人の視点から写実的に描き,とくに下町の老舗が没落するものがたりを四季の移り変りのなかで描いた《京屋襟店》は,〈傑作〉と呼ばれた最初の日本映画であり,田中はそれにより映画革新運動の理論家というよりはむしろ実践家としての業績を残した。…
※「生ける屍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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