日本歴史地名大系 「生沢村」の解説
生沢村
いくさわむら
北に
「吾妻鏡」建久二年(一一九一)七月二七日条によれば地頭土屋三郎が社内の桑を伐取ったと「相模国生沢直下社」の神主清包が訴え、両者が源頼朝の前で対決した結果、土屋の押妨を停止する裁許が下されている。応永一〇年(一四〇三)三月一三日の生沢小四郎入道田畠屋敷譲状写(県史三)によれば、生沢小四郎から馬宮彦四郎宗延へ一期の間「いくさわのかミのむらひかしかた」の居屋敷田畠が譲られ、また年未詳一〇月一七日付頼胤書状(同書)では宗延が知行していた「生沢郷内東方田畠在家并屋敷」が波多野高経の子竹音丸に譲られている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報