大磯宿(読み)おおいそじゆく

日本歴史地名大系 「大磯宿」の解説

大磯宿
おおいそじゆく

[現在地名]大磯町大磯・ひがし町一―三丁目・高麗こま一―三丁目

東海道五十三次第八駅。南は相模湾に面し、北西に王城おうじよう山・八俵はつぴよう山・二子ふたご山・羽白はじろ山・立石たていし山などが続き、南東に平坦地が広がる。花水はなみず川が東を南流し海に注ぐ。また、三沢みさわ川が西方王城山より出て東流、鴫立しぎたつ川は東小磯ひがしこいその山間より出て南流する。南は余綾ゆるぎノ磯とよばれる磯が続き、宿の入口に通じる東の松並木には遊女虎が化粧したと伝える井戸がある化粧けわい坂やその坂の中ほどに一里塚がある。東は大住おおすみ平塚宿、北は高麗寺こうらいじ村、高根たかね(現平塚市)、西は東小磯村と接する。東海道が中央を北東から南西に横切る。

和名抄」にみえる余綾よろき伊蘓いそ郷に比定される。奈良東大寺正倉院御物天平一〇年(七三八)銘の白布墨書に「郡大屋郷大磯里大磯部白髪輸調□□布壱端」とある。永久四年百首のうちに「おほ磯に朝な夕なにかゝきする海士も我こと袖やぬるらん」と詠まれる。

「吾妻鏡」文治四年(一一八八)六月一一日条によれば、奥州平泉ひらいずみ藤原泰衡から朝廷へ進納する馬・黄金・絹糸などが「大礒駅」に着き、三浦義澄はこの貢納物を抑留すべきか源頼朝の指示を仰いだところ、頼朝は朝廷への進納物であるので抑留しないと答えたとある。同書建久四年(一一九三)六月一日条によれば、前月二八日、富士の巻狩に際して起きた曾我兄弟の敵討に関連して「曾我十郎祐成妾大礒遊女」虎が召出されて尋問を受け、咎なしとして釈放されている。一八日には虎は在俗のまま黒衣の袈裟を着し、筥根山別当行実坊において祐成の三七日の仏事を修した。その際仮名書きの諷誦文を捧げ、祐成が与えた馬一疋を唱導の施物として奉納。虎はその日のうちに出家して信濃国善光ぜんこう寺へ赴いたが、これを見聞した者で悲涙を拭わぬ者はなかったとある。また建仁元年(一二〇一)六月一日条によれば、江島明神に参詣した源頼家はさらに足を延ばし相模川近辺を逍遥、狩猟を楽しみ、同夜「大礒」に止宿し、遊君らを召し宴を開いた。翌朝頼家が宿を出立する際、傍輩の妬みに妨げられて頼家の宴に呼ばれなかった愛寿という遊君が急に落飾した。これを聞いた頼家は多くの褒美を与えたが、愛寿はこれを高麗こうらい寺に施入し姿をくらましたという。鎌倉に近い交通の要所として繁栄した様子がうかがえる。

建武二年(一三三五)北条時行軍を破って鎌倉を奪回した足利尊氏は、恩賞の授与は自らが行うとの後醍醐天皇の命令を無視し、九月二七日勲功の賞として「大礒郷、在高麗寺俗別当職」などを三浦高継に与えている(「足利尊氏充行下文」県史三)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大磯宿の言及

【大磯[町]】より

…町の西郊の国府は相模国府のあったところで,相模の総社といわれる六所神社があり,今に伝わる国府祭(こうのまち)は毎年5月5日に行われ,神揃山の〈座問答〉の神事は県の無形民俗文化財に指定され,1月14日夜の北浜海岸の左義長,3月の白岩神社の歩射(ぶしゃ),7月の高来神社の御船祭などとともに人々を集めている。【伊倉 退蔵】
[大磯宿]
 相模国の東海道の宿場町。《和名抄》にみえる〈余綾郡伊蘇郷〉に比定される。…

※「大磯宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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