生野銀山町(読み)いくのぎんざんまち

日本歴史地名大系 「生野銀山町」の解説

生野銀山町
いくのぎんざんまち

江戸幕府が生野銀山の経営上特別区とした七ヵ町の総称。史料上は生野銀山町(文政三年「銀札引替規定」但馬信用金庫所蔵)のほか、生野銀山廻とするものが多い。また生野銀山市中(「改撰仙石家譜」東京大学史料編纂所蔵)・生野府中(明治元年「苗字帯刀加奉由緒書」藤垣家文書)府中ふちゆう(「江木鰐水日記」明治四年五月一日条)などともみえる。

〔成立と規模〕

口銀屋くちがなや町・猪野々いのの町・しん町・奥銀屋おくがなや町・小野この町・相沢あいざわ町・白口しらくち町が銀山廻とされるが、「銀山旧記」天文一一年(一五四二)条によれば、口銀屋は守護勢力のもとに侍屋敷・町屋敷や寺社などが並んでいたとされ、小野・相沢は永禄一〇年(一五六七)金香瀬かながせ鉱床が発見されて以来の集落と伝えている。天正一五年(一五八七)頃には新町・奥銀屋には人家がなかったが、慶長五年(一六〇〇)当時には人家ができてしだいに繁盛し、白口の人家は八八〇軒に及ぶほどであったとされる(同書)。慶長年間の人数は二万人近くであったという(生野史)。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では「生野御銀山」とあり、北の円山まるやま方面への道、東の猪野々・竹原野たけはらの上生野こうじくの黒川くろがわと結ぶ道がみえる。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「生野御銀山」とみえ、高四二石余。天和三年(一六八三)の銀山廻地改帳(生野書院蔵)では田畑合せて八町六反余・高四一石余と記載される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報