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西園寺公望 さいおんじ きんもち

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美術人名辞典の解説

西園寺公望

政治家・公爵。京都生。慶応3年王政復古に際し参与となり、鳥羽伏見の戦いに参戦する。クレマンソー中江兆民と交わり、自由思想の洗礼を受けた。帰国して明治法律学校(明治大学)を設立し、枢密院議長を経て明治39年内閣を組織する。昭和15年(1940)歿、92才。

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デジタル大辞泉の解説

さいおんじ‐きんもち〔サイヲンジ‐〕【西園寺公望】

[1849~1940]政治家。10年間フランスに留学、帰国後明治法律学校(のちの明治大学)を創立。文相・外相・蔵相などを歴任、日露戦争後、桂太郎と交互に政権を担当。のち、パリ講和会議の首席全権。昭和期は最後の元老として後継首相の奏薦に当たった。

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百科事典マイペディアの解説

西園寺公望【さいおんじきんもち】

明治・大正・昭和の政治家。公爵。1924年以後は〈最後の元老〉。右大臣徳大寺公純の子。京都の生れ。号は陶庵。戊辰(ぼしん)戦争では山陰,北陸に転戦し越後府知事になる。
→関連項目桂園時代小村寿太郎西園寺公一西園寺公望内閣西園寺家重臣竹越与三郎中江丑吉

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

西園寺公望 さいおんじ-きんもち

1849-1940 明治-昭和時代前期の政治家。
嘉永(かえい)2年10月23日生まれ。徳大寺公純(きんいと)の次男。西園寺師季の養子。フランス留学後,明治14年明治法律学校(現明大)を設立。伊藤内閣の文相などを歴任。36年政友会総裁,39年と44年に首相。パリ講和会議の首席全権をつとめ,最後の元老となった。昭和15年11月24日死去。92歳。京都出身。
【格言など】これで日本も滅びるのや,今から覚悟を固めておくことどすな(軍部の台頭に怒って)

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朝日日本歴史人物事典の解説

西園寺公望

没年:昭和15.11.24(1940)
生年:嘉永2.10.23(1849.12.7)
明治大正昭和期の貴族政治家。公家徳大寺公純の次男。母は斐子。西園寺家を継ぐ。のちの侍従長徳大寺実則は実兄,財閥住友吉左衛門(友純)は実弟。王政復古で参与。戊辰戦争に山陰道鎮撫総督,会津征討越後口総督府大参謀として従軍。家塾立命館(立命館大学)を創設(1869)し,長崎に遊学した。明治3年12月3日(1871.1.23)横浜を出発,コミューン動乱のさなかにパリに到着し,塾やパリ大学で学び法学得業士となる。在野の法学者エミール・アコラースの思想的影響を受け,光妙寺三郎,中江兆民,松田正久留学生と親交を深めた。はじめ政府留学生,のち私費・宮内省の補助による。13(1880)年に帰国。明治法律学校(明治大学)講師,東洋自由新聞社長となるが,内勅を受け,抗議的上奏文を呈して辞任。14年に参事院に入り,15年伊藤博文に従って憲法調査のため渡欧,伊藤と親しくなる。18年にオーストリア公使,次いでドイツ公使兼ベルギー公使を務め24年に帰国,賞勲局総裁,法典調査会副総裁,枢密顧問官,貴族院副議長をへて日清戦争さなかに第2次伊藤博文内閣文相,また病気の陸奥宗光に代わって臨時外相代理,兼任外相として戦後外交に当たる。伊藤,陸奥と外務次官原敬との関係が強まった。第3次伊藤内閣でも文相,次いで枢密院議長,さらに伊藤の後を原に引き継ぐまで政友会総裁。39年に第1次内閣,44年に第2次内閣を組織。辞職後大正1(1912)年に優詔を受けて元老に列する。松方正義の没(1924)後はただひとりの元老として後継首相の推薦や天皇の最高政治顧問を務めた。フランス思想と漢学の教養は抜群。自由主義と伝統的権威の間を揺れながら,議会主義と英米協調外交を推進しようとした。<参考文献>立命館大学編『西園寺公望伝』全4巻

(岩井忠熊)

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世界大百科事典 第2版の解説

さいおんじきんもち【西園寺公望】

1849‐1940(嘉永2‐昭和15)
明治,大正,昭和3代にわたり首相,元老として天皇制政権の中枢にあり,立憲主義の確立,維持に努めた公卿出身の政治家。右大臣徳大寺公純の次男で,幼時に西園寺家を継いだ。ともに摂家につぐ清華の家柄である。王政復古にあたり参与に任じられ,戊辰戦争では山陰道鎮撫総督,会津口征討大参謀となり,越後府知事となった。まもなく辞職して名も平民風に望一郎と改め,京都の邸内に家塾立命館を開いた。1870年(明治3)パリに留学し,法学者アコラスÉmile Acollasに学んで自由思想の洗礼をうけ,パリの自由な生活を楽しんだ。

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大辞林 第三版の解説

さいおんじきんもち【西園寺公望】

1849~1940) 政治家。号は陶庵。王政復古で参与となり、戊辰ぼしん戦争では各地に転戦。のち政友会総裁、首相。パリ講和会議首席全権。長く元老として後継首班奏請にあたり、立憲政治の維持に努めた。明治法律学校(現明治大学)、京都法政学校(現立命館大学)の創設に参画。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

西園寺公望
さいおんじきんもち

[生]嘉永2(1849).10.23. 京都
[没]1940.11.24. 静岡,興津
公卿,政治家。 1870年ソルボンヌ大学に留学,1880年に帰国し,明治法律学校を設立。また松田正久中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊したが,天皇の内勅で辞職。 1882年伊藤博文の憲法調査の外遊に随行,オーストリア公使,ドイツ公使,貴族院副議長などを歴任,第2次,第3次の伊藤内閣の文部大臣,枢密院議長を経て,1903年立憲政友会総裁。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

西園寺公望
さいおんじきんもち
(1849―1940)

近代の政治家、元老。嘉永(かえい)2年10月23日、京都の公家(くげ)、徳大寺公純(とくだいじきんずみ)の次男として生まれる。兄実則(さねのり)は長く内大臣、侍従長として明治天皇に近侍、弟友純(ともずみ)は住友家を継ぐ。幼名美丸(よしまる)、3歳ごろ公望を称す。号は陶庵(とうあん)。4歳のとき西園寺家を継ぐ。孝明(こうめい)天皇に近侍。王政復古の際参与(さんよ)、その識見は岩倉具視(いわくらともみ)をして賞賛せしめた。1868年(明治1)山陰道鎮撫総督(ちんぶそうとく)となり諸藩を朝廷に帰順させ、のち北国鎮撫使、会津征討越後口(えちごぐち)大参謀などとして北陸、会津の戦争に参加した。1871年よりフランスに留学、ソルボンヌ大学に入り、法学者アコラスに師事し、クレマンソーや中江兆民(なかえちょうみん)らと交遊、自由思想を身につけ1880年帰国。1881年兆民らと『東洋自由新聞』を創刊、社長となり自由民権運動の一翼を担ったが、勅命により退職した。翌1882年伊藤博文(いとうひろぶみ)の憲法調査に随行渡欧、皇室制度の調査にあたる。帰国後1884年侯爵、1885年オーストリア公使、1887年ドイツ公使兼ベルギー公使。1891年帰国し賞勲局総裁、1893年法典調査会副総裁、同年貴族院副議長、1894年枢密顧問官、賞勲局総裁。同年第二次伊藤博文内閣の文相、のち外相を兼ね、1898年第三次伊藤内閣の文相、1900年(明治33)10月枢密院議長となる。同年伊藤の立憲政友会創立に尽力し、10月第四次伊藤内閣成立時は首相病気のため首相臨時代理、伊藤の辞表提出後も臨時代理兼任首相、ついで伊藤から後継首班に推されたが謝絶。1903年7月伊藤が枢密院議長となると第2代政友会総裁となり、松田正久(まつだまさひさ)、原敬(はらたかし)の補佐を受け、動揺する政友会の復興に努力し、ポーツマス講和条約には全国的反対に抗して賛意を表した。1906年1月と1911年8月に桂太郎(かつらたろう)内閣の後を受け西園寺内閣を組織し、いわゆる桂園(けいえん)時代を現出した。憲政擁護運動では天皇より政友会鎮撫の沙汰(さた)を受けたが成功せず、責任を感じて総裁辞任。事後復職を求められたが謝絶し、1914年(大正3)原敬を総裁に推した。総裁、首相としての西園寺は、やや党内事情に暗く、また指導力、決断力においても欠けるところがあり、門地、声望と松田正久、原敬の補佐により任務を遂行したといえよう。以後は元老の一員となり、1919年パリ講和会議の全権として渡欧したが、目だった活動はなかった。
 1920年公爵。山県有朋(やまがたありとも)、ついで松方正義(まつかたまさよし)の死去により、最後の元老として後継首班奏請の全権を握った。要人が西園寺の意向を打診するため訪れた、いわゆる「西園寺(興津(おきつ))詣(もう)で」は有名。この間1924年の護憲三派内閣以後1932年(昭和7)までいわゆる「憲政の常道」の慣行をつくり、政党内閣の黄金時代を維持した。しかし政党の権威はしだいに失墜し、五・一五事件以後軍部の進出に対してもその横暴を断固抑えるのではなく、一時の変調とみなし、斎藤実(さいとうまこと)、ついで岡田啓介(おかだけいすけ)を首相としてファッショ化の波を抑え、政党内閣の復活を図ろうとしたが成功せず、逆に軍部や右翼によって宮中グループの隠然たる大御所と目された。また近衛文麿(このえふみまろ)や木戸幸一(きどこういち)らに希望を託したが成功せず、後継首班推薦の方式もしだいに内大臣を中心とした重臣との協議に切り換え、ファッショ化を憂いつつ92歳の高齢をもって昭和15年11月24日、興津の別邸で死去、国葬をもって遇せられた。娘のしん子に養嗣子(ようしし)として迎えた毛利家の八郎が後を継いだ。西園寺は高雅な文化人として、また桂太郎と対比して脱俗の人として知られた。静岡県興津の坐漁荘(ざぎょそう)は明治村に、京都の清風荘は京都大学の管理下にある。[山本四郎]
『白柳秀湖著『西園寺公望伝』(1929・日本評論社) ▽竹越与三郎著『陶庵公』(1930・叢文閣) ▽小泉策太郎著『小泉三申全集第2巻 随筆西園寺公』(1939・岩波書店) ▽原田熊雄述『西園寺公と政局』8巻・別巻1(1950~1952・岩波書店) ▽中川小十郎著、後藤靖・鈴木良校訂『近代日本の政局と西園寺公望』(1987・吉川弘文館) ▽立命館大学西園寺公望伝編纂委員会編『西園寺公望伝』4巻・別巻2(1990~1997・岩波書店) ▽高橋正著『西園寺公望と明治の文人たち』(2002・不二出版) ▽御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書7 西園寺公望』(2005・ゆまに書房) ▽岩井忠熊著『西園寺公望――最後の元老』(岩波新書)』

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世界大百科事典内の西園寺公望の言及

【亀山藩】より

…戦国時代より土豪の勢力が強かったので幕府が入組支配による統治を考えたためか,亀山藩領内には高槻藩,園部藩,篠山藩や旗本の知行地が複雑に入り組んでいた。特産物も少なく財政的に困難をきたして藩政改革を行っているが,幕末山陰道鎮撫使西園寺公望が弓箭組の先導で無血入城した。石門心学の石田梅岩,医師山脇東洋,画家円山応挙らが藩内よりでている。…

【桂園時代】より

…日露戦争後,桂太郎と西園寺公望が首相として交互に政権を担当した政治形態の総称。明治維新以来,薩長藩閥政治家中の元勲層が政権を担当してきたが,1901年伊藤博文が第4次内閣を投げ出して以後,長州閥の桂太郎が政権を担当して新しい時代が始まった。…

【元老】より

…明治中期から昭和の初めまで天皇の最高の相談役として政界の最上層にあって,重要事件に際して政局のまとめ役をつとめた特権政治家の一団。当初は伊藤博文,黒田清隆,山県有朋,松方正義,井上馨,西郷従道,大山巌で,いずれもいわゆる〈維新の功臣〉であったが,明治末から大正初めにかけて桂太郎,西園寺公望が加わった。公卿出身の西園寺のほかはいずれも薩長の出身で,内閣総理大臣等の要職を歴任した長老政治家である。…

【重臣】より

… 明治憲法の下では天皇が統治権を総攬(そうらん)しながら政治上の責任を負わず,しかも天皇を輔弼(ほひつ)する内閣の交代のルールや天皇に直属する諸機関の関係は明確にされていなかったから,こうした体制統合の最高調整にあたる天皇の顧問としての元老や,常侍輔弼の内大臣が重要な役割を果たした。だが1924年に元老は西園寺公望ただひとりとなり,ついで軍部が進出すると,重臣がこうした元老の任務を補強するようになった。すなわち五・一五事件で犬養毅政友会内閣が倒れると,西園寺は内大臣,枢密院議長,元首相および陸海軍元帥の意見をきいて斎藤実を推し,ついで同内閣が倒れると元首相,枢密院議長,内大臣の重臣会議を開いて岡田啓介を推薦した。…

【政友会】より

… この政友会を基礎にして1900年10月第4次伊藤内閣は成立したが,政党に拒否反応を示す山県系官僚の反感をかい,01年の第15議会では貴族院が政府提出の増税案に反対するという異例の事態となり,詔勅でこれをのりきったが閣内対立から総辞職した。これ以後,官僚勢力を代表する桂太郎と,03年伊藤博文に代わって総裁となった西園寺公望の政友会との対抗と妥協によって政権が維持される,いわゆる桂園時代が展開される。この間,党運営は原敬や松田正久らが実権を握って運用し,とくに第1次,第2次の西園寺内閣には原が内相に就任し,官僚勢力に対抗,鉄道の敷設や道路・港湾の整備,学校の設立などの地方利益を積極的に誘導することにより,地主層や地方財界人などに支持基盤を固めて党勢を拡大した。…

【大正時代】より

… 1905年9月の非講和運動は〈外には帝国主義内には立憲主義〉の理念に指導される全国的都市民衆運動として,大正デモクラシー運動の起点となったが,〈外に帝国主義〉の色彩は,1907年から09年にかけて展開された全国商業会議所連合会を中心とする軍拡反対悪税廃止運動により弱められ,13年初めの護憲運動にいたる。政府が民衆の不満を押さえて軍拡を進めるには政党の力を借りざるを得ず,1906年1月には政友会総裁西園寺公望を首班とする内閣が,官僚派代表たる長州閥の桂太郎内閣に代わって登場し,08年7月第2次桂,11年8月第2次西園寺と,交互に政権を担当する〈桂園内閣〉時代を現出した。政友会は実力者原敬の領導のもと,鉄道敷設,港湾修築など,制限選挙下有権者の大半を占める農村地主層の利益をはかる〈積極政策〉を推進し,1908年,12年の総選挙に安定多数を獲得し,つねに政府与党の地位を確保し,政治的発言権を著しく増大させた。…

【大正政変】より

…1913年の憲政擁護の民衆運動で第3次桂太郎内閣が倒された政変。1912年陸軍の二個師団増設問題で第2次西園寺公望内閣が倒れると,元老会議での後継首班推薦は難航し,結局この年8月大正天皇即位にともない内大臣として宮中入りした桂太郎を推薦した。桂はとくに天皇に詔勅を出させて組閣に着手し,軍備拡張を入閣の条件とした海軍大臣斎藤実をも詔勅によって留任させ,組閣を完了した。…

【東洋自由新聞】より

…1881年(明治14)3月18日創刊された日刊新聞。フランスに遊学し自由主義思想に触れた公卿西園寺公望(さいおんじきんもち)が社長,中江兆民が主筆を務めた。おりからの自由民権運動の高揚のなかでフランス的な自由民権論を展開し,とくに,中江兆民の執筆になる社説は,当時の自由民権思想のなかでも卓越していた。…

【徳大寺家】より

…その男則麿は父功により別家して男爵を授けられた。なお,公爵西園寺公望,男爵住友吉左衛門は実則の実弟である。【今江 広道】。…

【内大臣】より

…1912年8月に元老桂太郎が内大臣兼侍従長となったのをはじめ,大山巌,松方正義と元老が就任した。やがて元老がしだいに没して大正末には西園寺公望だけとなり,しかも老齢で,そのうえようやく成立した政党内閣の慣行も満州事変以降の軍の台頭で終止符が打たれた。西園寺は後継首相候補者の推薦にあたって内大臣を含む重臣の意見を求めるようになり,二・二六事件を経て宇垣一成内閣が流産すると,推薦を辞退した。…

【原田熊雄】より

…大正後期から昭和前期にかけて元老西園寺公望の政治秘書として活動した政治家。祖父原田一道は草創期の陸軍軍人で,少将・男爵。…

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